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No.250 「聴く」?「聞く」?

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 1996年の夏、私は、筑波大学の大滝純司さん(現・北大教授)から、しばらくの間東京SP研究会の活動の手伝いをしてくれないかと打診されました。それまで研究会を医師として支えておられた大滝さんがアメリカに留学している間の代理ということで、私は喜んでお引き受けしました。模擬患者のことは少し前から知っていましたし、これからの医学教育にはぜひ必要だと思っていたことも、その気持ちを後押ししてくれました。その1年前、COMLの辻本好子さんから東京SP研究会の佐伯晴子さんを紹介していただいていましたから、知らぬ仲でもありませんでした。そのときはワンポイントリリーフのつもりだったのですが、そのまま20年も研究会とのおつきあいが続くことになってしまいました。
 はじめのころSPを知っている大学の教員はごくわずかだったのに、今ではコミュニケーションについての教育を行うことがどこの大学でもあたりまえになりました。試行的にわずかの大学で行われていたOSCEは共用試験として必修のものとなり、さらに多くの大学でadvanced OSCEが行われるようになりました。もうすぐ国家試験にも取り入れられそうです。どの大学にも医学教育部門が設立され、コミュニケーション研究の専門家という人も増えてきました1)。コミュニケーションに関する本もたくさん出版されるようになりました(他人事じゃないって)。卒後臨床研修も必修化されました。20年って、短い時間ではありません。

 OSCEや医療面接演習のおかげで、若い医師の多くは患者さんに挨拶するようになりました(挨拶する習慣はけっこう身についてしまうようです)。言葉遣いも丁寧になりました。open-ended questionで相手の話を遮らず、相槌を打ち、「共感的な言葉」を言い、話をまとめ、患者さんの考えや希望を尋ね、言い残したことがないか確認することも知りました(だんだん忘れる人が少なくありませんが)。「聞く」ではなくて「聴く」ことが大切だと、若い人は何度か聞かされているはずです。
 それでも、こうした教育・医療面接演習が目指すのは、やはり患者から情報を聞き出すことです。つまり、目的は患者にいっぱい情報を話してもらう(「吐かせる」に近い)ことです。研修医の演習ともなれば、「よく聞き出していた」「質問があちこちに飛んでいた」「どのような疾患を考えて質問していたのか」「既往歴の訊き方が不十分」「一日の生活を話してもらうと情報が得られやすい」「敬語が間違っていた」というようなコメントが飛び交います(もちろん私も言っています)。模擬患者さんも「聞いてもらってうれしかった」「わかってもらえた気がした」「丁寧に話してもらった」「質問にまとまりがなかったので、どう答えてよいか困った」というようにフィードバックすることが多いので、結果としては医療者の姿勢を強化してしまいます。(こうしたフィードバックは全く適切なものです、念のため。「もっと雑談したかった」なんて言えませんし、言われた方も困りますものね。)
 これでは医療コミュニケーションは、医療者のためのものでしかありません。コミュニケーションは、必要な情報を得て患者をこちらのペースに乗せるための「武器」だということになります。「武器」だと考えるからこそ、「戦略としての医療面接術」などという本が出版されます。そこでは、患者は「組み伏せるべき敵」だという思いがうごめいているような気がしてしまいました(ストラテジーという感覚が分からないではないのですが、それにしても関係者は誰も「戦略」という言葉遣いに引っかからなかったのかな?)。

 OSCEで求められる程度(最低限ということです)に丁寧に話を聴くことは、そのあとのつきあいを育むためのファーストステップであるということが伝えられているでしょうか。
 医療の場のコミュニケーションで本当に大切なのは、「聴く」を経て、「聞く」「(適度に)聞き流す」ようなつきあいに辿りつくことなのだと私は思うようになりました。No.246でも書いたことですが、他人に「理解しよう」と迫ってこられれば、それは暴力になりえます。「聞き出そう」「記録に残そう(ナラティブ、ライフヒストリー)=研究業績にしたい」という下心は、いくら隠しても絶対に感じ取られてしまいます。「理解しよう」というほどではないにしても、「対象」として見ること自体にすでに暴力性が孕まれます。真剣なまなざしが、脅威となりえます2)。その雰囲気が、患者さんの出かかった言葉を呑み込ませてしまいます。逆に言えば、こちらが「油断」したときにしか話されない言葉があるのです。
 人は、はじめから本当に大切なことを洗いざらい一人の人に向かって話しはしない。むしろ、「つまらない」話をいっぱい聞いてくれればそれで十分ですし、そのことでその人のことが信じられます3)。そんなふうに話を聞いてくれた人だからこそ、ついつい大切な話をしてしまうことはありえます。それもこちらが身構えていない時時に限って。「油断」=「弛緩」していると感じられた時にだけ「言ってみようかな」と思う言葉があるのです。そのとき、患者さんの心も一瞬弛緩しているのです。それでも、洗いざらい話すなんていうことはまずありませんし、相手によって少しずつ(時には、大きく)話す内容は変わります(関わり合いを踏まえて話すのですから、当然です)。
 患者の話をぼんやりと聞く、清拭や環境整備など何かほかのことをしながら聞く4)。「ふーん」と生返事をして聞き流すけれど、ときどき顔を見る、たまに「ちょっとしたこと」を言う(No225の最後の一文とは少し「矛盾」した書き方ですが)。患者から見れば「一人語り」のような場面、「わかってくれないだろうけど、それでもいいや」と思うところからの語り。終わってみれば、患者は「わかりっこないことをしゃべってしまったな」とちょっと苦い思いにもとらわれる。医療者は「何だったのかな」と思い、廊下を歩くうちに忘れてしまいかねないような話。そんな関係も「ケア」ではないでしょうか5)
 茫洋とした話の中にも、何か一つ二つの言葉が医療者の心に引っかかる。それは記録にもできないし、カンファレンスで語ることもできないかもしれない。「患者理解」とも言えないし、ライフストーリーにも書かれない。ライフストーリーを読んでいてつまらないのは、その話は目の前の医療者に対する「プレゼント」として語られたものであり、その記録に書こうとは思いもしなかったような言葉のやりとりが消えてしまっていることです。きっとそのようなやりとりのほうにこそ、つきあいが息づいているのだと思います。そのやりとりが楽しいからこそ、人は、人の話を聴き、人と話すのかもしれません。
 そのような言葉が書かれていると感じる丁寧なライフストーリーに出会うことはありますが、それとても書いた瞬間にその言葉は凍結保存されてしまいます。その言葉を発した人の思いの奥のほうが見えるわけではありません(見ようとしても見切れないし、見えても見なかったことにしておくほうが良いこともあるかもしれません)6) 7) 8) 9)「あさが来た」の主題歌「365日の紙飛行機」に「その距離を競うより、どう飛んだのか、どこを飛んだのか、それがいちばん大切なんだ」とありますが、「その距離」とは、ライフストーリーで言えば「書き記されたもの」のことだと思います。
 相手の話を「ぼんやり聞く」「聞き流す」ようなつきあいは、「聴く」という過程を経て初めて辿りつくことです。患者さんと対峙するような面接は、そのための第一歩に過ぎません。でも第一歩なしにその先はありません。その先のつきあいのために、私たちはその貴重な第一歩のことをとても大切に思っているということを、医学教育の中で伝えられればと思います。医療面接の目的が情報収集だと思い込んでいれば、その先のつきあいのことを展望できなければ、せっかくOSCEや医療面接演習で学んだことを忘れてしまうのも仕方ありません。
 鶴見俊輔さんは繰り返しunlearn=「学びほぐす」という言葉を紹介していますが、それはこのような過程のことではないかと思います。「ほぐす」という言葉の触感は、「守破離」よりも親しみがあるだけでなく、大切なことにこだわり続けながらもっと「やらかく」していこうとする「マッサージ」のような感じがして、私は好きです。(2016.08)

1) 私たちが日常的に行っていることに「学」という文字を付けたり、「学会」に仕立て上げることには、なにがしかの胡散臭さがつきまとう、私の偏見と僻みだが。コミュニケーションはお互いに働きかけあうことだから、コミュニケーションを考えるということは働きかけており働きかけられている自分を問うことである。病者とつきあう自分は何者なのかという自己への問いに蠱惑されなければ、コミュニケーションを考えることは楽しくない。自己への問いは、「学」にはなりにくい。

2) もちろん、真剣に話を聴いてもらえればうれしい。でも、それは「どんなことを話すのだろう」と興味津々で聴いてくれている時である。

3) 「じぶんが言ったことが承知されるかされないかは別にして、それでもじぶんのことを分かろうと相手がじぶんに関心をもちつづけていてくれることを相手の言葉やふるまいのうちに確認できたとき、ひとは『分かってもらえた』と感じるのだろう。理解できないからといってその場から立ち去らないこと、それでもなんとか分かろうとすること、その姿勢が理解においてはいちばんたいせつなのだろう。」
 「じぶんがどんなことを言おうとも、そのままそれを受け入れてもらえるという確信、さらには語り出したことで発生してしまうかもしれないさまざまの問題にも最後までつきあってもらえるという確信がなければ、ひとは自分のもつれた想いについて語り出さないものだ。なぜか。語るということは、他人の前でじぶんが多重化すること、つまりは着地点が見えないまま自分を不安定に漂わせるということであり、つまりは自らを無防備にする行為だからである。そんな危うい姿をひとの前に晒すことはない。だから、語りの手前で、言葉の宛て先として承認されることがなければ、語りは生まれない。だから、語りの手前で、急かすでもなくじっくり待つ、つまりは時を重ねるということがどうしても必要になってくる。」
いずれも 鷲田清一 河合隼雄「臨床とことば」TBSブリタニカ2003

4) 一昔前なら、花瓶の花を整えるというようなことがありましたが、最近ではお見舞いに花を持ってくることがとても少なくなってしまいました。病院が高層化するにつれて、窓を開けることもカーテンを開け閉めすることも少なくなりました。急性期病院では、雑談できる程度に回復すると、患者さんは転院してしまいます。院内禁煙となってしまったので、喫煙コーナーでの雑談もできなくなりました。医者は、もともとそのような接触をしたがりません。

5) 「きょうはちゃんと聴きますというふうに、相手の言葉を全部受け止めようとすると、聴かれる側の言葉は妙によそよそしくなる。自然さが消えていく。逆に、聴かないふりをすると、聴かれる側の言葉は妙に自然になる。ちゃんと聴くには、あえて聴かないふりをすることのほうが効果的なことがある。・・・・聴くことの別のプロ、たとえばカウンターの向こうにいるママやバーテンダーは、聴かなかったことにする、はぐらかす、からかう、とりあわない、つれなくするというようなかたちで、逆にちゃんと聴くという不思議なわざを持っている。あえて聴く耳をもたないふりをする、耳の端だけで聴く、わざとつっけんどんな言葉を返す、冷たいばかりにあしらう、思いとは逆のことを言う、ときにはきっぱりと突き放す、ときにはこんこんと諭す・・・。たぶん、とりあわないふりをしながらも、客のぐだぐだにさいごまでつきあってくれるからだろう。・・・正面からきちっと聴こうとする『傾聴』では、すきまやずれは生まれにくい。・・・『聴く』、『聞く』、『訊く』、嗅ぐという意味での『利く』、それらがずれあい、からみあうなかで、かろうじて『聞く』という営みはなりたつ。」
 鷲田清一「噛みきれない想い」角川学芸出版 2009 (同じ内容の文章は「おとなの背中」にも書かれており、その文章はNo.190で引用した。)
 「もしかするとメッセージそのものよりも、『メッセージのやりとりがちゃんとできているかどうか』のテストのほうを私たちは優先させているばかりか、そちらのほうこそがコミュニケーションの本質であるのではないだろうか。」内田樹「死と身体 コミュニケーションの磁場」医学書院2004

6) 「人間は、その時の状況に合わせて、いろいろなことを言うものだ。」仲正昌樹「なぜ「話」はつうじないのか」晶文社2005
 「打ち明けるとき、人は不安に打ち勝って『信頼』という人間が人間に贈りうる最高の贈り物を贈る。」松木邦裕「対象関係論的心理療法入門」金剛出版2005
 「人は、言葉を、真実を表すために語るのではない。人はウソを作り出すために言葉を用い、隠れるための城を築くために用いる。」竹内敏晴「思想するからだ」晶文社2001
 心はいつも言葉には入りきらない。言葉の意味には語られるつど新しい意味が付け加わり、その言葉を聞く人にとってもその意味は変わり続けていく。語られた言葉は、いつも心を置き去りにする。患者が言葉にしない「秘められた世界」を保ち続けるように、医療者もまたその患者とのつきあいについて言葉にならない・あえて言葉にしない「秘められた自分だけの世界」を抱えて生きる(自覚しているとは限らない)。そのような思いを自覚せざるをえなかったつきあいこそが、一人の人間としての医療者の人生を支えていく。

7) 「私は複数の言語を話し、それだけの数のやり方で生活について考える。どの言葉を使うのかは、話し相手によって調整する。それは嘘をつくことではない。それぞれの人が理解することのできる、あるいは我慢することのできる種類の情報を、それぞれの人に示すことだ。」
 「病む人に対しては、誰もが、その体の状態を、最も秘められた隅々にいたるまで、尋ねる権利があると思っている。丸裸にされてしまわないように、人は嘘をつく。」
 いずれも クレール・マラン「私の外で」鈴木智之訳 ゆみる出版 2015

8) 患者さんが、話したくないかもしれない話を話さざるを得なくなるほどそばにへばりついて、そうしてでも聞き出すことで、かろうじて自身のアイデンティティを確認しなければ身動きが取れない医療者が、一定数存在しているのではないだろうか。そこからケアが生まれることはありうると言うべきか、そのようなときにこそケアが生まれると考えるべきか。他方、多くの医者のアイデンティティは別のところにあるので、患者の物語に大きな関心を払わない(かのようにふるまう)。

9) その人の暮らしの積み重ね、そして、その積み重ねの底にある思いを、宮本常一が聞き取ったように聴ければと思う。宮本は、語りを「聞き出している」というより、宮本がそばに居ることによってその人の中から「溢れ出てきた」言葉を両手で受け止めているように感じられる。ナラティブに「のめり込む」人の中には、そのような経験を重ねている人がいるのかもしれない。宮本常一の系譜に鳥取で「野の花診療所」を開設している徳永進が居ると思うし、徳永と形は違うが神谷美恵子も宮本につながるところがあると思う。
 宮本常一 「忘れられた日本人」岩波文庫1984 「庶民の発見」講談社学術文庫1987 など多数
 徳永進「死の中の笑み」ゆみる出版1982 など多数
 神谷美恵子「生きがいについて」みすず書房1966など

コミュニケーションのススメ 日下 隼人 コラム

● 本コラムの内容は、著者 日下 隼人の個人的な意見であり、マイインフォームド・コンセントの法人としての考え、および活動に参加しておられる模擬患者さんたちのお考えとは関係ありません。

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