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No.248 「共感する能力は育てることができるか?」(1)

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 「共感する能力は育てることができるか?」という、医学教育についてのパネルディスカッションを聞いてきました。ついこの前までは、このようなことは看護の世界でしか語られていませんでしたから、時代は変わりました。「感性を育てる」と言われることもありますし、情意教育とも言われます。
 でも、「感性を育てる」「共感能力を育てる」というような言葉が成人教育で語られることには、ある種の「傲慢さ」が潜んでいるという気がします1)。そこには、若い人たちはそのような能力が未熟であるという前提があり、教育者のほうが優れているという先験的な思いが見え隠れします。そもそも感性や共感能力は「教える」ものなのでしょうか。それ以前に、患者は共感を求めているのでしょうか。共感してもらえないもどかしさが自分を支えることがあるのではないでしょうか。共感(わかってしまうこと)もまた「暴力」になりうるのではないかということはNo.246で述べました。共感できなければケアはできないのでしょうか。共感できないからこそ生まれるケアがあるのではないでしょうか。教育する側がまずこのように自問することから始めなければと思いますが、そのような問いは聞かれませんでした(企画の段階では話されていたかもしれません)。

 共感の定義として、「クライアントの私的な世界をあたかも自分自身のものであるかのように感じとること」(C.ロジャース)とか「個人の境界線を越えてあなたと私の間に響きあう心の現象、つまり、人と人とが関わり合い互いに影響しあうプロセス」(杉原保史「プロカウンセラーの共感の技術」創元社2015)などと言われます。でも、堅苦しい定義から話し出されると、それだけで敬遠してしまう人がいるでしょう。「人のために働きたいとは思うけれど、自分の生き方を変えようなどは思っていない」「個人の境界線など越えたくない」人が大半です。個人の境界線は越えようとして越えられるものではなく、ふと気が付いたら「越えていた」というようなものなのですから、ここから話し始めたら教育は躓いてしまいそうです。
 知識や技術は、その教育を受け経験を積むことで向上することは確かですが、態度は医師として働く時間が長くなればなるほど低下します。医師の一生で見れば、感性も共感能力も医師になりたての時が最も鋭敏なのです(それとても、医学教育のおかげで医学部に入りたての頃よりずっと低下しています)。「医療の場は、人生で最も澄んだ感性を持つ患者と、感覚を麻痺させがちな医師が対峙するところ」と研修医採用試験の履歴書に書いた医学生がいたこと、そして「医療の場は、人生で最も澄んだ感性を持つ研修医と、感覚を麻痺させがちな指導医が対峙するところ」でもあるのだろうということは、前にも書きました(No.118)。この世界に身を置いた時間の長さに比例して、感性も共感能力も摩耗します。そんな先輩の医療者としてできることがあるとすれば、若い人たちの「感性」「共感能力」をすり減らさないということだけだと私は思います。

 医学部で臨床実習の始まったころ、医師になり始めたころ、みんな医者としての人生で最も澄んだ感性が息づいていて、「なにか変だな」「これで良いのかな」「あれで良かったのかな」と思うことに必ず出会います。でも、その思いを指導医に語るとはかぎりません。口に出しているのですが、指導医が聞き取れないことのほうが多いのかもしれません。
 本当に深刻な問題を抱えている人が誰かに相談しようと思うとき、はじめにまず「ささいな」ことについて相談をしてみます。そのとき「なあんだ、そんな(ささいな・つまらない)こと」という反応をした人には、それ以上のことは相談しません。若い医師の場合でも同じです。患者さんのことで自分の抱いた違和感、迷いは、「おそるおそる」ためらいながら、でも「さりげなく」雑談の場などで話してみたりします。カンファレンスの場ではそのような発言はいかにも場違いで、無視されたり、煙たがられたりします。ナースを交えたカンファレンスでも、「こわくて」話すことができません。「あれでよかったのだろうか」と口に出したとき、「仕方ない」「仕方なかった」と言われることもありますし(しばしば、「慰める」つもりで言われます)、「そんなことに悩んでいてはだめだ」とか「情に流されてはいけない」「泣いてはいけない」と叱咤されることもあります。同期生と飲みながら話しても、たいてい同じようなものです。飲み会で話せば、場の雰囲気を悪くするKY(死語?)だと思われます。こうしたことを経験すれば、思いは表現されなくなり、あとは感性・共感能力が摩耗していくだけです。
 若い医師の戸惑う言葉を聞き流さず、戸惑う表情に立ち止まること、それが先に生きた者の仕事です。それは、「今が教育の機会だ」と感じた時ではなくて、その言葉にこちらが思いがけず「ハッ」としてしまう時です。その言葉は、私の気持ちに波紋を起こし、私の生き方に影響を与えます。つまり、私は若い医師の思いに「共感」しているのです。若い医師の思いに共感しないで、患者への共感を伝えられるはずがありません。立ち止まるその姿こそが、教育です。若い医師が、感じたことや思いを自由に話せる場を用意すること、そしてその「涙」や「落ち込み」や「迷い」を無条件に支持することが、私たちの務めです。

 でも、先輩の医師が、若い医師の言葉を聞き取り、無条件に支持する態勢をとり続けることは容易なことではありません。それを「無神経だ」「鈍感だ」と非難・批判しても何も事態は変わりません2)
 医師は決して無神経なのではありません。医師が医療現場に足を踏み入れた瞬間から、「他者」が迫ってきます。レヴィナス流にいえば、「他者は、盤石だったはずの私の存在そのものに疑問を付す」のです。その不安定さを喜ぶ人はまれで、多くの人は回避しようとします。「私の存在に疑問を付され」たくはありませんし、「個人の境界線を越えてあなたと私の間に響きあう心の現象」などという穏やかならざる事態が起きることは避けようとします。
 患者の死に出会った時、死の陰に怯える患者の姿を見る時、治療が思ったようにうまくいかなかった時、心が動揺します。患者や家族が傷つく姿を見ていることに、傷つきます。自分のことでないだけに、しかも自分が多少なりともその事態に責任があるだけに、医師は複雑に傷つきます(このことはNo.204で書きました)。その心の揺れ=傷を抱えていては医療ができないという思いが迫ってきますから、認知的不協和の低減を図れる理屈を作り出します(医者は理屈づくりが得意です)。心の揺れ=傷を抱えている「不快さ」「不安定さ」を回避しようとする無意識の自我防衛も同時に働きます3)
 つまり、医療者は誰もが「心の病(闇)」を抱えていくのです。医療の世界で経験を積むということは、この闇を抑圧する日々が続くということです。闇は年を追うごとに深くなり、「感性」「共感能力」は摩耗していくしかないのです(摩耗させることで辛うじて医療の場に居続けられるのです)。
 先輩の医師にとって、若い医師の感じたことを聴いて受け止めること、その「涙」や「落ち込み」や「迷い」を無条件に支持することは、「自分」という存在を脅かしかねません。「闇の扉」が開いてしまうかもしれません。若い医師の言葉を「聞き流す」(耳を塞ぐ)人のほうが多いのは仕方ないことです。自分の「抑圧」している部分を見ない範囲で、認知的不協和を低減するために作り出した理屈で「教育」してしまいがちです。そのとき、心の闇を「抑圧」する姿、理屈を作り出す姿は無意識のレベルで伝わっていきます。
 感性や共感能力についての教育としてできることがあるとすれば、先に生きた者の思いを「伝える」ことだけです。共感能力の教育を考えるということは、まずは「指導しよう」と思う人自身が自分の心の闇と対峙(対決ではありません)すること抜きにはありえないと思います。もちろん、何歳になっても医師としての初心は生き続けており、それゆえの葛藤は感じ続けています。日々感性が摩耗しつつある中で、それでもなんとか消滅だけは避けたいと「もがく」先輩医師の姿が教材です。 (249に続きます)(2016.07)

1) 「ヘアー・インディアンの親や、その他の大人たちは、子どもを育ててやるとか、しつけてやるといったことは考えない。人が人に忠告したり、命令したり、助言したりすることはできないという前提があって、赤ん坊や幼児といえども独立した人格をもっているとされるので、育ててやるとか、しつけてやるとか教えてやるといった態度は、人間として傲慢きわまりないと思っている。したがって大人たちは、自ら育ちいく子どもたちを、自分の子、他人の子に関わりなく、眺め、ともに遊び、楽しむのである。」(原ひろ子 平凡カルチャー「育てる」1980。「ヘアー・インディアンとその世界」平凡社1989)

2)  すでに心傷ついている人への攻撃的な言葉は、その人の心を固くし、壁をつくることにしかなりません。部外者からの非難は、「実情を知らない妄言」と受け取られ、医者には届きません。模擬患者は、患者ですらないのですからもちろん部外者です。患者も、医師ではないのですから部外者です。専門的な臨床のかかわりが少ない医師(たとえば医学教育や倫理学に関わっている医師、総合診療科の医者もそうです)も部外者です。他科の医師も、自分の科の診療についてはわからないのですから部外者です。自分の科の医師も、自分ではないので部外者です(しばしば最も身近な「敵」です)。結局のところ自分以外のすべての人が部外者になるのですが、その自分が思う「自分」も部外者なのかもしれません。

3) ひとは死すべきものとしてこの世界に投げ込まれており、その不安から目を逸らして生きる(ハイデガーの言う「頽落」した生き方をする)しかないのに、否応なく日々他人の生死と接する(目を逸らせない)医療者という仕事はなんと因果な商売なのでしょう。日々死の不安がたえず掻き立てられる仕事であるがゆえに、いっそうその「不安」を強く抑圧し続けなければならず、そのために更に頽落した生を懸命に生きるしかないという事情が医療者にはあります。「患者さんのため」と言って研究や診療に邁進する姿は典型的な「頽落」した在り方だと思いますが、「死の臨床」「緩和ケア」などに取り組むことにすら頽落は忍び寄ります(そうした医療者の献身的で誠実な姿勢は貴重な者であり、それを「非難」しているわけではありません)。
 だから医者のアイデンティティは不安定なのです。医者の居丈高、尊大さ、強引さなどは、多くの場合その人の「弱さ」の表れです。単なる幼稚さの表れであるとしか言いようがないこともありますし、愛着障害や自己愛性人格障害と診断したくなる人もいますが、それもまたこの不安定さと無縁ではないのでしょう。

コミュニケーションのススメ 日下 隼人 コラム

● 本コラムの内容は、著者 日下 隼人の個人的な意見であり、マイインフォームド・コンセントの法人としての考え、および活動に参加しておられる模擬患者さんたちのお考えとは関係ありません。

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