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No.290 対立関係に拍車をかける

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 ある病院で、入院する患者さんに「誓約書」を書いてもらうことにしたそうです。入院の必要がなくなったのに「居座って」退院してくれない患者さん、「暴言」や「暴行」をふるう患者さんが増えてきて困ってのことのようですから、やむにやまれぬ思いもあったのだろうとは思います。とはいえ、「職員の指示に従ってください」「医師から退院を指示されたら、退院してください」「・・・があれば 強制退院になることがあります」というような言葉の羅列に、その試案を読んだ私は戸惑いました。病院・医療者に「逆らう」患者は「敵だ」「悪者だ」という思いがそこに流れているようです。ノイズは、どのようなものであっても不愉快なのでしょう。そもそも、私は「指示」という言葉がとても苦手なのです。
 私が医学部に入った50年前には、このような姿勢が「当たり前」でした。一瞬「時代錯誤」と思いましたが、50年という期間は変わるには短すぎるのでしょうか。この50年、「患者の権利」が語られ「患者の視点」から医療を考えようとしてきたことへの揺り戻しでしょうか。もしかしたら、このような姿勢こそが新しい(「患者の権利」ばかり言い過ぎたことへの軌道修正だ) 1)と思っている人がいるのかもしれません。「する側(「施す」と思っている側)」「強い立場」の人間がこのように感じてしまうことは、どのような時代でもどのようなところでも人間の「性」として避けがたいものなのかもしれないとも思いました。この試案は他のいくつもの病院のものを参考にしたということでしたから、なおさら暗澹たる気持ちになりました。
 ところで、このような「誓約書」にサインしてもらうことで、ほんとうに事態は解決するでしょうか。対立関係に拍車がかかるのではないでしょうか。
 入院した当日の混乱した精神状態の中ですから、たいていの患者さんは書かれている文面を読まないか読み飛ばしてサインするでしょう。とにかくいろいろな書類にサインしなければ入院もさせてもらえないし、治療もしてもらえないのですから、サインし続けます。小さい字でいっぱい書いてあればなおさらです(生命保険の約款や、詐欺まがいの通販サイトの文面と同じです)。私の母も妻も、入院の時や手術の時には文面をほとんど読まずにサインしていました。ですから、後になって何か問題が生じたときに、この誓約書を眼前に押しつけて「サインしたではないか」と言っても、おぼろげにしか読んだ記憶がない患者さんとの関係は一層こじれるだけです。
 心細い状況なのに、それでも文章をしっかり読む人の中には、不快になってしまう人もいるでしょう。「上から目線だ」「病院中心だ」「官僚的だ」と感じてしまう人は必ずいます。「病院の思惑で追い出されてしまうのか」「職員に逆らえないのか」と、病院の姿勢全体に対して猜疑心に囚われる人もいるでしょう。
 たくさんの患者さんの中には「犯罪的」な人も時にはいますから、そのような場合には警察の力を借りることも必要ですが、「人を見たら犯罪者と思う」というのは違うと思います。「トラブル」を生み出すことが、心の病による人は間違いなくいます(その病を医療者が増幅させていることも少なくありません)。心の病を抱えている人に強権的に対応し、個別のケアが面倒だからその対応を患者全体に広げておくというのは官僚的姿勢です(いわゆる「官僚的」という意味で、現実の官僚の中には良い人がいっぱいいると思っています)。官僚的姿勢とケアは相反するものです。こちらの「困っている」思いは伝わりませんが、官僚的な匂いは必ず伝わり、多少なりとも嫌悪感を生みます。
 入院初日にこのような不快感を抱いてしまうと、それからの病院でなにか違和感を抱く出来事に会うたびに過剰に不快感を抱いてしまいます。「やっぱり」と思ってしまいます。初頭効果です。その結果、職員との無用の確執が増えるでしょう。回数が重なると、嫌悪感がしだいに強くなります。このような人に「サインしたではないか」と言っても、その「上から目線」に更に反発し、事態は悪化するのが普通です。「こんな文章にサインさせるような病院だから、なお許せない」と反論されてしまうかもしれません。
 一方医師やスタッフは、患者さんが入院するたびに誓約書について説明することになりますが、そうすると、そのつど、この文章に流れている「医療は医療者・病院中心のものだという感覚」「自分は指示する立場だという感覚」が医療者の心に刷り込まれ、その思いが強化されていきます。その思いは態度の端々に表れてしまい、そのつど患者さんは不快になり、不快感が積み重なります。医療者にそのつもりがなくとも、医療者の言動になにか上からの姿勢を感じると、「やっぱりこの病院は」と患者さんは感じてしまいます。
 患者さんとの間に確執を生む機会がかえって多くなり、さらにトラブルが増えると、「やっぱり患者というものは」という認知が強化されます(確証バイアスです 2))。「する側」の人は自分が種を蒔いたのではないかとは考えないものですから、「あの誓約書では不十分だ」とさらに強権的態度をエスカレートすることになりがちです。軍備拡張と同じです。
 でも別の方向に向かう途があるはずです。「特に『問題』を起こすわけでもない患者さんがこの文章を読んでどんな思いをするだろうか、この病院のことをどのように思うだろうか」という想像力を持つことは、そんなに難しいことではないと思いますし、それだけで別の方策が考えられると思います。何か事件が起きたときに、「自分たちが種を蒔いたのではないか」「自分たちが状況の悪化に拍車をかけていないだろうか」と想像を巡らせることができれば、事態は違って見えるはずです。
 「指示に従ってください」「強制的に退院していただきます」などと言わなくとも、「お願いします」「お勧めします」「提案させていただきます」というような言葉で表せることが多いはずです。もちろん、それとても「医療者による管理」の桎梏から免れるわけではありませんし、言葉が丁寧なだけより逆らい難いという面はあるに違いないのですが。私は、せめて誓約書の前に「患者の権利」についてしっかり書かれていれば随分感じが変わると思いましたし、言葉づかいを少し変えるだけでかなり雰囲気が変わると思いました。そのことをお話ししたところ、担当しておられる方々が耳を貸して下さったことに50年の変化を感じ、少しホッとしました。

 教育も医療も同じです。患者のことを悪く言う人に、ほんとうに医療を任せて良いでしょうか。学習者のことを悪く言う人に、ほんとうに教育を任せて良いでしょうか。「悪く言わない」という意地を張り続けていたい。(2018.01)

1) これは戦後「自由ばかり主張したから日本が悪くなった」という論と同じです。最近聞いた医療倫理の講演で「個人の自由の尊重と共同性とのバランスを考えることが重要だ」という言葉を聞きました。「患者さんを取り巻く人々の間での共同性に支えられた自己決定」という意味で言われているようですから、それには私も同意するのですが、それでもこの言い方は「多数派」「勝ち組」の言葉だという気がしてしまいました。自由を限りなく侵害されて生きている人、共同体の力によりその生が「圧殺」されている人は、この国にもまだまだいます。共同性なしに人は生きられないけれど、その共同性と対峙するしかない人生を余儀なくされる事態は誰にも起こり得ることです。病むことは、誰にとっても、共同性と個人(自己)の尊重との間の確執が生まれるところです。個人を徹底して尊重することを通して辿りつく共同性というものがあるのではないでしょうか。そういうバランスのとり方があると思いますし、そのようなところで倫理を考えていきたいとあらためて思いました。

2) 「やっぱり医者は…」という非医療者にありがちな反応も、確証バイアスがかかっていることが多い。

コミュニケーションのススメ 日下 隼人 コラム

● 本コラムの内容は、著者 日下 隼人の個人的な意見であり、マイインフォームド・コンセントの法人としての考え、および活動に参加しておられる模擬患者さんたちのお考えとは関係ありません。

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