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No.349 基本的人権

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 手塚治虫は、「漫画を描くうえで、これだけは絶対に守らなければならぬことがある。それは基本的人権だ。どんなに痛烈な、どぎつい問題を漫画で訴えてもいいのだが、基本的人権だけは、断じて茶化してはならない。
それは、
一、 戦争や災害の犠牲者をからかうようなこと。
一、 特定の職業を見下すようなこと。
一、 民俗や国民、そして大衆をばかにするようなこと。」(『マンガの描き方』1977光文社 1996再刊)

 コロナ感染症に関連して、この提言と正反対の言葉=ヘイト的・差別的・見下し的な言葉が氾濫しています。この国にはずいぶん前からヘイト的な言葉・出版物が溢れています。過去の歴史を正視し反省することを拒み(しばしば事実を歪曲したり、「なかった」ことにしたり)、自分の国の過去や現状について批判的なことを言う人にたいして「反日」というような(意味不明な)言葉を投げかけ(「国賊」と一緒だ)、近隣の諸国や自国内の少数民族を差別・蔑視し、人間を「能力」「生産性」によって評価する。そんな流れからは、病をめぐってヘイト的な言葉が出てくるのは「当然」です。結核・ハンセン病・水俣病といった医療の歴史の教訓は生かされていません。歴史の負の側面に学ばないことは、現に生きている人を「幸福」にはしないのです。
 ヘイト的な言葉が聞かれるのはこの国に限ったことではないでしょう。それは自我の弱さ・自信の無さの表れであり、どこの国にもそのように自我を防衛することでしか自分を支えられない人はいます。時には国(民)全体がその嵐に飲み込まれてしまうことを、20世紀の歴史が示しています。「人間は弱いものだ」ということは重々わかっているつもりですし、コミュニケーションを考えるからにはそうした人たちとなんとか回路を通わせることを断念しないでいたいと思います。「今思うのは差別する奴は幼稚な人間。プライドがある人は決してやらないし、やれない」(あるツイッターから)のだとしたら、その人のプライドを大切にするところからしか回路は開かないのでしょうが 1)

 とは言え、「新型コロナウィルスのことばかり聞いているのがつらいのではなかった。ずっと、誰かが誰かを責め立てている。これを感じるのがつらいのだ」(糸井重里)という言葉には驚きましたし、こうした言葉とも回路を通わせることができるだろうかと思いあぐねています。この「責めている誰か」とは誰のことなのでしょう。「誰かが誰かを責めなくてもよい状況はどうすれば作れるのか」を語らずに、このように言うだけでは「責めて」いる人を「責めて」いることにならないでしょうか。「責めざるをえない状況にある人」が現にいるのに、ことの是非を問わなければ、「責められている人」を擁護することだけにしかならないでしょう。「強い」人が「弱い」人を責めることは非難されるべきですが、「弱い」立場の人が「強い」立場の人を責めなければ、「弱い」立場の人のつらい状況は改善しないでしょう。この言葉は、ヘイト発言をする人にも向けられているのでしょうか、それともヘイト発言を責める人を責めているのでしょうか。キャッチコピーだけで解決することはできないほど事態は大きいのに、「まあ、まあ」と言える人の「ゆとり」の優位性自体が問われているのに。
 「自分も道徳を持ち出して何か言うとしたら、道徳を自分ではなく他人に求めることが最も道徳的に低い行為だと思う」という言葉(これも別のツイッターから)は、手塚の言葉に通じています。(2020.05)

1) 「見晴らしのよい場所に立つには努力が要るのです。意見の異なる人たちとあえて執拗なまでに意見をつきあわせ、交換する必要があるのもそのためです。寛容という精神は呻きとともにあり、それを乗り越えようとする苦行のなかからしか生まれません。」(鷲田清一『濃霧の中の方向感覚』晶文社2019)


日下 隼人

コミュニケーションのススメ 日下 隼人 コラム

● 本コラムの内容は、著者 日下 隼人の個人的な意見であり、マイインフォームド・コンセントの法人としての考え、および活動に参加しておられる模擬患者さんたちのお考えとは関係ありません。

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