メインビジュアル

No.316 教育の費用対効果?

コラム目次へ

 国立大学の卒業生を「人の税金を使って学校に行った」と貶めるような発言をする政治家がいることに驚きました 1)。同じ人が言った「『飲み倒して運動も全然しない(で病気になった)人の医療費を、健康に努力している俺が払うのはあほらしくてやってられん』と言っていた先輩がいた。良いことを言うなと思った」「(終末期医療について)さっさと死ねるようにしてもらうとか、考えないといけない」「(延命治療について)(自分なら)その金が政府のお金でやってもらっているなんて思うと、ますます寝覚めが悪い」などいう言葉とは別の不快な感じがしました。
 ちなみに、「暴飲暴食をし、健康管理をせず、健診も受けていない人」が悪いというのは、そのような人生を送らざるを得ない状況を生み出す社会構造を見ないようにして個人に責任を負わせる「責任帰属の錯誤」です。「健康に努力する」にはそれだけの文化的資本も経済的資本も必要なのです。健康的な生活をするだけのゆとりもなく、まして健康診断を受ける余裕もなく、その日をなんとかやり過ごすしかない人たち(しばしば「不節制」な生活に生きがいを見出すしかない)を生み出してしまう社会構造を変えることが政治家の仕事です。「政府のお金」は国民が支払ったお金でしかないのですが、こういう人には言ってもきっと通じない。「元気で、他人のために貢献できた幸せ」があるはずです。

 閑話休題、今回感じた不快感は教育をお金の問題に還元して語ることについてです。以前から「医者の育成には多額の税金がかけられている」「一人1億」などと言われ、それに対して「計算上のトリックでそんなにかからない」という反論もあります。1億というのは都市伝説(きっとそんなにかかっていない)でしょうが、事実がどうであれ、そのような言葉を聞いても医学生は発奮したり責任感を感じたりはしないでしょう(そんな人がいたら、相当危うい)。逆に、このような言葉を聞かされた時、その言葉への不快感を抱いたという学生は何人もいます。
 何事もお金に換算して語るからこその資本主義社会ですから、教育の価値・人の価値もお金で語られてしまいがちです(私たちもそのような言説を受け容れてしまいがちです)。でも、「あなた一人に○○円」と金額に自分が置き換えられるような気がして、何ともいえない不快感があります(「一山○○円」という感じがしてしまいます)。昨年秋から問題になった女子に対する医学部の不適切な入試に関しても、「お金をかけて女性を教育しても」と「費用対効果」が露骨に語られていました。「お金をかけてやっているんだぞ」「国のお金でやってもらっているんだぞ」→「だから一生懸命勉強して、良い医者になるんだぞ 2)」という上から目線からの発言は、学生の立場としては公然とは反論しにくいものだけにいっそう不快です。ここでは「俺の支払った健康保険料が不摂生なヤツのために使われている」「生活保護のくせに怠けているヤツがいる」「一銭たりとも税金の無駄遣いは許せない(あるていどの無駄を含みこまない有効な使い方はないのに)」といった言葉と通底もしています 3)
 医学生は、医師になるかもしれない人・医師になっても良いと思っている人であって、医師になることを定められた存在ではありません 4)。こうした言葉は、その思いを多少なりとも削いでしまうでしょう(このあたりのことはNo.252でも書きました)。

 教育を費用対効果で語ることは危ないのです。「1億もかけてこれだけのことしかできないのか」という言葉はもっともらしく聞こえるかもしれませんが、「100万でこんなに効果的だった(得だった)」という言葉を聞けば、費用対効果で語ることの「下品さ」が透けて見えます。教育が貶められる感じがします。
 私の母は「医学部卒業まであなたにこんなに教育費がかかった。領収書はすべて取ってあるから、医者になってから返してもらう」とずっと真顔で言い続けていました。そう言われるたびに私は「下品だな」と思ったのですが、「大学6年間で76000円しか掛からなかったじゃないか(入学金4000円+授業料1000円×72回)と反論する自分の下品さにも相当嫌気がさしていました(もちろん下宿代・教科書代などお金はもっとかかりましたし、貨幣価値も今とは違います)。教育にお金の話を絡ませることに下品さを感じるのはこうした経験からかもしれません。
 大阪市が設計を急いでいる「メリットペイ」制度では、全国学力調査やその他の学力標準テストの結果を、校長や教員の人事評価やボーナス、そして学校予算に反映させるとのことですが、そこには下品さだけでなく、やはり原因帰属の錯誤があります。学力格差は社会経済的背景格差に影響されます(『子どもの貧困ハンドブック』かもがわ出版p74)。政治の仕事は、金で教員を操ることではなく、子どもたちを取り囲む社会経済的背景格差の是正であるはずです。どのような原因であれ、医療を必要としている人に、その人の望む医療を提供できる体制を保障していくことも政治の仕事のはずです。

 2018年のテレビドラマ「大恋愛」で、MCI(Mild Cognitive Impairment軽度認知障害)に罹患した医師・間宮尚がその経験を医学生に講義します(ドラマでは、妨害されてこの講義はできないというストーリーでした)。その予行で語られた一節です。
 「病気は患者さんにとっては一生に一度の大イベントなのです。MCIや若年性アルツハイマーになることも青天の霹靂なのです。その驚きと恐怖を、医師となる人は忘れてはならないと思います。何科の医師になっても病気や手術やお産に慣れないでください。手術の前の晩、あなたの患者さんが何を考え、何を祈り、何を願っているか、そのことに思いを馳せることのできる医師となって下さい」。
 この脚本を書いた大石静さんは現在67歳ですが、24歳で甲状腺がんに罹患しており、その後もいくつか病気をしておられますので、その時の思いがこのような言葉になっているのかもしれません。
 病気になることは、何歳の人であっても「晴天の霹靂」であり、高齢者にとっては「ついに来たか」という思いが加わります。手術前日でなくとも、患者さんは「考え、祈り、願って」います。手術前日でなくとも、夜は人の不安を深くします。
 同時に、夜は夢の時間でもあります。夢の中では元気な時のように颯爽と走っているかもしれませんし、バリバリ仕事をしているかもしれません。病気が良くなっているかもしれません。家族や親しい人と楽しい時間を過ごしている夢のこともあるでしょうし、昔の思い出が蘇って嬉しくなっていることもあるでしょう。目が覚めてから意識がはっきりするまでの間、何か良いことが起きていないかと期待して自分の身体を探るかもしれません。だからこそ、覚醒して現実が変わっていないとわかった時、その落差に落胆します。
 「患者さんが何を考え、何を祈り、何を願っているか」、そして「患者さんの夢」に思いを馳せることからケアが生まれ、その姿勢は臨床倫理にまっすぐにつながっています。そのような医療者を作ることができれば、それだけで臨床教育の目標は達成されたと言えます 5)。「たったそれだけのこと」ですが、それができるのならばそのためにいくら「お金や時間がかかっても=効率が悪くとも」良いではないですか。(2019.02)

1) OECD(経済協力開発機構)が発表した「図表でみる教育2018年版」では、2015年のOECD加盟国において、小学校〜大学の公的支出のGDP比について、OECD加盟国の平均が4.2%だったのに対し、日本は2.9%、比較可能な34カ国のなかで最下位でした(2年連続のことで、2013年にブービー、その前は6年連続で最下位)。OECD加盟国の半数は大学の学費が無償であるのに対し、日本の場合は、幼児教育と高等教育に対する支出は、50%以上が家計から捻出されています。教育への公的支出が少なく家計負担を強いている状況が、親の所得格差が子どもの教育格差につながるという「貧困の連鎖」を生み出しています。OECDは、高等教育において“日本の国公立教育機関の学士または同等レベルの課程の授業料はOECD加盟国のなかで4番目に高く、過去10年、授業料は上がり続けている”とも指摘しています。さらに、2014年時点で公的貸与補助を受ける高等教育の学生の割合は全体の45%、卒業時に抱える平均的負債額は3万2170ドルにものぼり、この返済に学士課程を卒業した学生で最長15年を要することにOECDは言及し、「これは、データのあるOECD加盟国の中で最も大きな負債の1つである」と記述しています。(LITERA 2018.11.20から引用)

2) 一生懸命勉強しても、それだけでは良い医者にはなれないと思います(私のように勉強をさぼってばかりいた人間ももちろん良い医者にはなれない)。趣味とかバイトとか部活とか、なんでもよいけれどカリキュラムにはなく成績表には載らないことに時間を割く(「没頭」とか「熱中」とかしなくても良いと思う)ことのほうが、良い医者につながるなにかが得られると思います。医学教育学会では論文にならないことですが。

3) 「医学部を卒業したからといって、医者にならなくても良いんだよ」と言えないような医学教育はロクなものじゃないと思います。

4) 医学生とは「医者になってもよいかな」と思っている人だと捉えるならば、医療面接演習は「医療の場って、こんなに面白いことがあるんだよ。医者の仕事って面白そうでしょ」ということを伝える場だと考えるほうが良いのではないでしょうか。「こういうことが出来なくては医者になって困るよ」「こんなことのできない人が医者になっては困る(No.80で書きました)」ことばかりを教えこもうとしていても教育の場は楽しいものにはなりませんし、コミュニケーションが苦手になってしまう人を作る効果もありそうです。もちろんそれは医学教育者の仕事であって、模擬患者さんの仕事ではありませんし、OSCEで行えることでもありません。

5) 先だって、武蔵野赤十字病院で研修を担当している事務職員が突然の重い病気で入院し、数日間意識のない状態が続きました(幸い今は全快しています)。彼が独身だったこともあり、意識が戻るまで研修医たちが交代で付き添ったという話を聞いて、もうこの人たちには研修修了証をあげても良いと私は思いましたし、これからも若い人たちを信じ続けようと思いました。「指導しなければ」と思ってばかりいると、良いところは見えないのです。

コミュニケーションのススメ 日下 隼人 コラム

● 本コラムの内容は、著者 日下 隼人の個人的な意見であり、マイインフォームド・コンセントの法人としての考え、および活動に参加しておられる模擬患者さんたちのお考えとは関係ありません。

● コラムNo.230 までは、東京SP研究会ウェブサイトにアクセスします。