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No.271 「無駄のない」病院建築?

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 ある病院の新築計画を立てるにあたって、患者のための食堂も理容室も不要だと主張する幹部の医師がいたとのことです。喫茶コーナーがあるのだから食堂は要らない、入院期間が短くなり患者さんはみんな重症なのだから理容室は要らない、ということのようです。この医師はこれまでの医者としての人生で、人間を見てこなかったのでしょう。チーム医療も見えていなかったのでしょう。
 がん診療連携拠点病院に入院してくるがん患者さんにとって、薬剤のために日々大量に抜けてしまう頭髪の問題は、医療者には想像もつかないほどの深刻な問題です。そのような人が理髪室での会話で救われることは少なくありません。三次救急病院に運び込まれた患者さんのそばに居て心身ともに憔悴した家族が、患者さんの状態が少しだけ落ち着いたときに、理容室で洗髪してもらって人心地を取り戻し、患者さんを支える新たな力が湧いてくることもあります。患者さんにしても家族の人にしても、髪を整えてもらいながらの雑談が、医療者とばかり話すしかなかった緊張を和らげてくれることもあります。レストランで食事をするわずかの時間にふと我に返ることができるということもあります。食後にひとりで少しだけぼおっとする時間に人は支えられることもあります。喫茶室で一杯のコーヒーを飲みながら、ひとしきり泣くことで、また病室に戻っていく力の蘇る人も居ます。そんなことを何も知らないまま医者として年を重ねることは可能なのです。
 病院に関わるみんながチーム医療のメンバーです。チーム医療とは、国家資格を持っている人たちだけが行うものではありません。看護助手や清掃スタッフが患者さんの心の支えになっていることは珍しいことではありません。そのような人たちが意識的にメンタルケアをしているということではなく、むしろ「専門職」という裃を着ていない人と挨拶を交わし、一言二言普通の会話を交わすという、息の抜ける人間関係が保たれていることに人は支えられるのです。理容師の人たち、レストランのスタッフ、病院を持ち場としているタクシーの運転手・・・・、みんながさりげない会話で患者さんを支えてくれています。時には、こうした人たちが患者さんの愚痴を聞いたり、慰めたりもしてくれているのです。そのような人たちに医者は助けられているのですが、そのことに気づかない人は少なくありません。
 病院には、患者さんや家族が、ひとりで、ぼおっと時間を過ごせる「隙間」のような場所がそこここにあると良いと思います。一人でこれからのことを考えたり、一人で物思いにふけったり、頭をからっぽにする時間と空間が、きっと必要です。そのような場所でなければ泣くこともできないでしょうし、泣くことによってしか浄化されないこともあるのです。その場所は医療スタッフの視野には入るところにあるけれど、スタッフからの声かけはなるべく控える。患者さんのほうからは、その気になれば医療者に声をかけることができるような適度の距離の場所。そのようなものがあれば、病院が古いか新しいか、病院がどのように飾り立てられているかなどということはどうでも良いという気がしています。
 機能的な病院、無駄のない建築は息苦しい。そんなところに身を置いていると、病に追い詰められた息苦しさを解消するためには、感情を爆発させるしかないかもしれません。無駄のない病院は、患者さんとスタッフとの間の「ぎくしゃく」を増やしてしまいそうです。
 せんだってある病院の指導医養成講習会で、医師たちにこの話をしたところ「そちら(非専門家との関わり)のほうが、治療でずっと重要な役割を果たしているのに」と言ってくれましたので、私は少しほっとしました。

 今日の急性期病院は、できるだけ早く患者さんを「後方病院」に送り、平均在院日数を短くすることに「追いまくられて」います。「患者に早く転院してもらうためには、患者に冷たく接する方が良い」と言う医者に出会った時には、その言葉が冗談なのか本気なのがしげしげ顔を見てしまいました。そうではなくて、「これだけのことをしてくれた病院だから、これだけ親身に関わってくれた先生が言うのだから、転院の『勧め』に乗ろうか(乗るしかないな)」(この「これだけ」には設備を含みます)と思ってもらうだけの関わりと設備を提供することこそが必要なのだと思います。(2017.04)

コミュニケーションのススメ 日下 隼人 コラム

● 本コラムの内容は、著者 日下 隼人の個人的な意見であり、マイインフォームド・コンセントの法人としての考え、および活動に参加しておられる模擬患者さんたちのお考えとは関係ありません。

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