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No.324 「ともに濡れる」

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 透析中止が報道されてから、ツィッターやブログで今回の事案について肯定的な言葉を述べる医療者が気味の悪いくらい澎湃と湧き出てきました。
 医療現場は日々衝突・対立があり、患者さんや家族の言動に医療者が思い悩むことは少なくありません。そのルサンチマンの表れかと思わされる医療批判や家族蔑視・敵視を目にするのはつらいものがありました。日々自分がしている仕事の意味がうまく位置づけられないことへのいらだちが根底にあるのでしょうか。
 患者さんに選択肢を提示し説明しているのだから「よくやっている」と言う医師が多いことにも驚きました。ここで「よくやっている」と言っているのは、つまるところ「手続き」です。インフォームド・コンセントを患者が書類にサインすることに矮小化してきたことのツケが回ってきています。もしかしたら。医学部を理系としてきたことのツケも回ってきているのかもしれません。

 「悲惨な最期でよいのか」「無益で偏った延命措置で患者が苦しんでいる」「低いQOL」1) というような言葉を、透析中止肯定の根拠として挙げている人も少なくありませんでした。そのような現場がきっとあるのだとは思います。もともとQOLという概念は「治療中止」の根拠とするために作り出されたものですから、正しく使われているとも言えますが、このクオリティは何と比較して語られているのでしょう。語っている人は「このような苦痛に満ちた生ならば、このように低いQOLならば、死のほうが良い(ましだ)」と考えていることになります。
 けれどもここで、悲惨な現実を見ている医療者は、その患者さんを悲惨な状況に追い込んでいる責任の一端は自分にあるという自覚はあるのでしょうか 2)。自分もその当事者(患者)になったらどう行動するかわからないという謙虚さが感じられないまま、「患者さんのことを考えてあげている」というような上からの視点の発言も少なくありませんでした。悲惨さの解決は「早めの死」3) しかないのでしょうか。
 当該の病院は「看護師を交えた話し合いがなされた」と言っていましたが、看護師が居たのにこのような経過であったことにいっそう気が重くなります。看護師はどんなことを主張したのでしょうか、主張できなかったのでしょうか。「話し合い」に参加した医療者に「もしも・・・『病』を雨に例えるなら、私は傘をさしかけてくれるだけでなく・・・ともに・・・濡れてほしいのです」という言葉は届くでしょうか。(中村ユキの漫画の言葉 夏苅郁子『人は、人を浴びて人になる』ライフサイエンス出版2017から)
 報道では「倫理委員会で検討されていなかった」ことが指摘されていますが、患者本人のいないところで議論し、方針を決定する倫理委員会とは何かということについての疑義は見かけられませんでした。倫理委員会で承認されたら、それを盾にして医師は「医療者の思惑」に患者さんを誘導するよう説得を続けることになるのでしょう 4)。倫理委員会は、しばしば医療行為を正当化・後付け承認する「下部機構」にしかなっていません 5)

 「透析患者はみんな終末期だ」という担当医の言葉は苦し紛れの言い訳かもしれませんが、逆にふだんから生命倫理について深く考えていなかったことを露呈してしまいました。このような言い方に倣えば、終末期という言葉は、その意味が透析以外にも容易に無限に拡大される可能性があります。津久井やまゆり園事件を起こした犯人の「理屈」と同じですし、この国が津久井の事件をきちんと受け止めてこなかったことの延長に今回の事件があります(No.251) 6)。No.300-302で書いたことは、予想以上に早く進行してきているようです。
 「人間の存在意義は、その利用価値や有用性によるものではない。・・・ただ『無償に』存在しているひとも、大きな立場からみたら存在の理由があるにちがいない。自分の眼に自分の存在の意味が感じられないひと、他人の眼にもみとめられないようなひとでも、私たちと同じ生をうけた同胞なのである。もし彼らの存在意義が問題になるなら、まず自分の、そして人類全体の存在意義が問われなくてはならない。・・・・現に私たちも自分の存在意義の根拠を自分の内には見いだしえず、『他者』のなかにのみ見いだしたものではなかったか。五体満足の私たちと病みおとろえた者との間に、どれだけのちがいがあるというのだろう。・・・・大きな眼からみれば、病んでいる者、一人前でない者もまたかけがえのない存在であるに違いない。」(神谷美惠子『生きがいについて』みすず書房1966)
 このコラムで引用するのはもう3度目になりますが、この文章から50年が経って、あの時代よりいろいろなことが良くなってきているのに、人の生きることへのまなざしが冷たくなっていることが悲しい。
 あなたの身体は「惨めな身体」だと言われれば残りの人生は生きるに値しないものであり、「かけがえのない身体」だといわれればどのような状態であっても人生が輝くということ。逆に言うと、「意味のない人生」と言われるか「かけがえのない人生」と言われるかで、自分の身体は違って見えてきます 7)。「全体主義は、大衆の熱狂によって蔓延する。長いものに巻かれてはならない。迎合してはならない。」(中島岳志『保守と立憲』スタンド・ブックス2018)(2019.05)

1) 「『よりよく生きる』『その人らしい人生を支える』という理念は、かなり医療者目線ではないかということ。・・・・もう、わがままに生きていいと思うんですよ。『患者風』を吹かせ、好きなように自由に生きればいい。弱音を吐いたっていいじゃないですか。どんなに患者さんに寄り添おうとしても、その苦痛は医療者にはわかりません。『傾聴』というスキルがあります。ひたすら聴くんです、しゃべらずに。そうやって、それぞれの価値観で物事が決められるように気遣い、支える。これが緩和ケアの本質だと身に染みて感じます。」がんになった緩和ケア医・大橋洋平さん 朝日新聞2019.3.11朝刊
 腫瘍専門医が治療効果の乏しくなった患者さんに「そろそろ治療をやめて、自分らしく生きることを考えたらどうでしょう」と言ったという「寒々しい」話を佐々木常雄さんが紹介している(『がんと向き合い生きていく』セブン&アイ出版2019)。それまでの治療の時間は「その人らしくない生き方」を強いるだけのものだと医師は考えているのか、その治療の時空を生きてきた「その人らしさ」が医師には見えていなかったのか。「自分らしく」という言葉の選択は、語彙の不足だけによるものではないだろう。

2) 「現状は『過剰医療』といったある種『贅沢』なものを許す雰囲気にあるとはとてもいえない。にもかかわらず『過剰』を言い立て、さらには治療しないほうが長命になる等々と語るのは、現状の雰囲気を形成している背景を探る努力を怠っている点で精神的に怠惰であり、特定の上意下達的な方向に誘導しようとしている点で倫理的に許されないのではないだろうか。」香川知晶「終末期医療のイメージ」医学哲学医学倫理 No.36 2018

3) 「死ぬ権利とは『権利の基盤を崩壊させるもの』という意味であり、それはもはやright(権利)ではなくleft(左道)です。」川島孝一郎「こんなになってまで生きることの意味」『ケアという思想』岩波書店2008
 「ただでさえ重荷にあえいでいる人生なのに、見知らぬ医者から『絶望』を背負わされるなんてまっぴらです。現実逃避とか、臆病とか、そういった態度を蔑むのは間違っています。正直でなにがいけないのでしょうか」春日武彦『「治らない」時代の医療者心得帳』医学書院2007
 「障害を否定的に捉えようと肯定的に捉えようと、そんなことは無関係に誰であれ個人はひとりの尊重されるべき個人である。・・・・私たちは、端的に、自分の存在の尊厳を人権として主張すればよいのである」河野哲也『心はからだの外にある』NHKブックス2006
 「死に淫する哲学は、末期の病人のことを、死ぬ以外に為す術のない、死ぬしかない人間と決め付けている。治療不可能と宣告しさえすれば、善をなす他者の手によって死を与えること以外に何をなすべきことも考えるべきこともないと決め付けている。だからこそ、死ぬことに意味を賦与したがる。死ぬ権利に対比されているのは、生きる権利ではなく、権利を喪失したとみなされる生、すなわち、ただの生、低次元の生、生き延びるに値しない生である。」「飢えた子どもを前にしたら食物を与えるべきなのは、・・・権利云々以前のことであろう。同様に、末期の病人を前にしたら、食物や薬物を摂取できなくなっているなら、それに代わるものを与えるべきなのは、正当化以前のことであろう。」小泉義之『病いの哲学』ちくま新書2006

4) 「医師たちは、患者や本人がそのこと(病院の方針)を認めきるまで喋りつづけます。」小松美彦『「自己決定権」という罠』言視社2018

5) 院内倫理委員会の仕事は、せいぜい検査・治療実施までの手続きを一つ二つ増やすことや患者へのささやかな気配りを促す程度のことである。もし倫理委員会が臓器移植や人工授精の全面禁止を主張すれば、即刻委員の総入れ替えが行われるであろうことは確実だし、そのことが倫理委員会の「役割」を端的に示している。

6) 「小児科医は社会に役立つ人間をつくることだ」とある小児科の大家が言ったという話を聞いた時、私はその大家にもそのことを得々と語る人にも寒気を覚えた。「人間を作る」という傲慢な視点に立つ限り、この「社会」はすぐに「国家」に転化する。「役立たない」人間の範囲はいくらでも拡張されて排除の対象となるし、人間以外の自然にはいっそうためらうことなく拡張される。言っている人間は「自分は社会に役立っている」と疑うことなく信じて、人間を選別していく。この言葉を聞いた時に、私は「小児科医の仕事は、どの子どもも選別されることなく、一人の人間として十分に尊重される(その人のために役に立つ)社会を作ることではないのか」と思った(No.197でも少しふれた)。

7) 「遺伝的多様性の尊重という美しい言葉の傍らに、遺伝的な『障害』や『疾患』とされるものを不経済と断じる強い視線と、そのような生命の誕生と存続を許容せず、それを抹消しようとする様々な圧力が存在することも否定できない事実だろう。話は遺伝的なものに限らない。様々な(後天的)要因によって、労働と生産に参与できず、他者と社会にとって負担にしかならないとされた生命は、いつでも『死の中に廃棄』(フーコー)の対象となりうる。・・・現在の皮肉は、この死の中への廃棄が、個人の自己決定によって選び取られていくということである。」「福祉国家の危機を少子高齢化にのみ囲い込む言説は、それ自体がイデオロギーとして、こうした事態を不可視化する。」市野川容孝『社会』岩波書店2006
 川島孝一郎は、上野千鶴子の「高齢者における『社会のお荷物』となった自らに対する差別意識が、自己抑制、延命治療の差し控えにつながる」という言葉を引用している。「障害と高齢の狭間から」現代思想44(19)2016

コミュニケーションのススメ 日下 隼人 コラム

● 本コラムの内容は、著者 日下 隼人の個人的な意見であり、マイインフォームド・コンセントの法人としての考え、および活動に参加しておられる模擬患者さんたちのお考えとは関係ありません。

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