No.364 児童虐待とケアのはざまで
コラム目次へ 子育てに悩まない人はいません。子どもについ「手をあげて」しまうのはきっと親の「常」ですし(少し前までは躾と言われていました)、つい「ひどい言葉」が口をついてしまうことは珍しいことではありません。
子育てを支援する体制も徐々に充実してきています。子育ての悩みや心配事を「子ども家庭支援センター」などに相談に来る人は少なくありません。でも、そのクライアント(相談員と区別するため、この言葉を用いています)が「子どもを叩いてしまった」と言ったとたん、虐待対策ワーカーが介入することになり、クライアントはいろいろ「尋問」されることになります。「せっかくここ(センター)を信頼して相談に来ていたのに」「(相談員のことを)とてもよい人だと思っていたのに(犯罪者扱いされるなんて)」と、一瞬にして心を閉ざしてしまうクライアントは少なくありません、「もう二度と来ません」と 1)。そう言われてもワーカーは接触を継続しますが、クライアントは心を開いて話を聞いてもらえる人を(少なくともしばらくの間)見失うことになります。そのことは、ますますクライアントが追い込まれていく危険性が増すことでもあります。最悪の場合、虐待のサイクルが進んでしまうこともあります。「虐待死を根絶する」という「正しい」目的のためには、多くの養育者が傷ついてもそれは仕方ないことであり、その悩みが「置き去り」にされることはやむをえないこととされてしまいがちです 2)。そのとき、ケアする側の心も「置き去り」にされていきます。
養育者は行政の介入に対しては身構えますから、電話をしても通じない(出てくれない)、訪問しても居留守を使う、あるいは周囲の人がその養育者を弁護するなどという事態も起きます。いろいろな「理屈」を言い続ける人も居ますし、本心から虐待でないと思っている場合もあります。それもあって、「虐待死を無くすために」警察との緊密な連携をとろうとする傾向が強くなってきました(そのことを強く主張している人もたくさんいます)。そうすることが必要な状況は確かにあります。でも、警察は、当事者を問いただすという姿勢に傾きがちですし(どうしても犯罪者対応になりがちです)、時にはその家を「見張る」「聞き込み」といったことをしようとさえします。「聞き込み」をされた後、その後の近隣の人との関わりがどうなるのだろうということまでは、警察は考えてくれません。
実際には、いつも警察とともに家庭訪問するなどということはありえませんから、虐待対策ワーカーは一人で家庭を訪問します。そこでは、さまざまの複雑な状況にある家庭を見、付き合うことになります。養育者から罵声を浴びせられるのは珍しいことではありません。要保護児童対策地域協議会(要対協)の会議では、教育関係者(校長など)から「あなたたちの責任ですよ」と責められることもありますし、警察や児童相談所と歩調が合わないことも少なくありません。法律家がいつも力になってくれるとは限りません。このような状況の中で、熱意をもってワーカーや相談員の仕事に取り組んできたのに(だからこそ)、心や生活のバランスを乱して退職してしまう人が少なくありません。
虐待事件が明るみに出るたびに児童相談所や子供家庭支援センター・自治体の対応が責められますが、スタッフが過酷な状況の中で傷つきながらたくさんの虐待事案に関わっていることには思いを巡らしてもらえません。そのお蔭でたくさんの子供や養育者が助かっても、「うまくいくこと」はあたりまえだとしか思ってもらえません。医療者へのとりあえずの感謝の言葉だけでGO TOキャンペーンを「楽しむ」人が溢れてきたりすることと、同じです 3)。(2021.02)
1) 医療の場でも、医療者のちょっとした言葉や態度で、「せっかくあなたを信頼して話したのに」「とても良い人だと思っていたのに」と、一瞬にして心を閉ざしてしまう患者さんや家族はきっと少なくありません、「もう二度と話しません」と心の中で思い詰めて。少なくとも、私はこのようなことを言われた経験が何度かあります。患者さんを心配しての言葉であっても、患者さんには「尋問」のように響くことも少なくありません。
2) 「重要なのは『うまくいっている家族』と『崩壊している家族』があるのではなく、多くの家族は『問題がありつつ何とかやっている』という中間的な状態にあるということだ。」貴戸理恵「コロナ禍と家族」現代思想49-2 2021
3) コロナ病棟で「隔離された死」と向き合い続ける中で、心と生活のバランスを崩している(あるいは、気づかぬままにトラウマが進行している)医療スタッフは少なくないと思います。
※ 2月10日NHK Eテレ22時50分「ねほりん ぱほりん」で児童相談所職員が取り上げられます。(Eテレが無くされませんように)
日下 隼人