No.363 弘法筆を選ばず
コラム目次へ 模擬患者は医学教育の「ツール」です。模擬患者のことを「道具なんだから使い勝手が良くなくては」と思う医学教育者がいても、それはそれで「あたりまえ」のことかもしれません(道具は、「使い捨て」のものだと考える人もいます)。医学教育者の「模擬患者さんには、いつも医学教育にご協力いただいて」というような挨拶は、「道具」だという思いの裏返しだと考えるのは穿ち過ぎでしょうか。「模擬患者さんの言葉に、医療者の在り方が問われています」などと言う人にもめったに出会えません 1) 2)。
それにしても、その「道具」の良し悪しばかりが問われていることは不思議です。「模擬患者のばらつきを減らす(標準化)」「質の向上」「地位の向上」といった言葉は耳にしますが、「教育者のばらつきを減らす」「質の向上」といった言葉は聞かれません。「チェックリストがあれば、ばらつかない」というものでもありません(面接場面には目もくれずひたすらチェックリストに✓をつける評価者もいます)。「弘法筆を選ばず」と言うのに、と思います。「筆(道具)を使う人の資質」「力量」、使い方の「上手下手」によって、教育は大きく異なったものになるはずです。筆のばらつきに左右されない「仕組み」を作る工夫もできるはずです。医学や教育には素人の市民(他方、普通の人の暮らしについてはこちらの方がずっと「専門家」です)が参加しているのですから、うまく「使いこなす」のは医学・教育の専門家の責任です 3)。でも、そのような議論は耳にしません(私が疎いだけかもしれませんが)。
模擬患者を学生評価のための道具に留めることなく、学生を導くきっかけの「道具」として生かしてくれる教育者は「弘法」です。あの「滑らかな言葉で、さわやかな面接」をしてくれた医学生たちは、その後どうしているでしょうか。彼らは、その「枠」を超えることができたでしょうか。個々の場面で期待される(褒められる)ことを忖度して、なにごとも表層的に「そつなく」やり過ごすことを処世術として生きていく学生がいると思います(もしかしたら、そちらの方が多数派かも?) 4)。演習終了後に「ありがとうございました。とても勉強になりました」と言う学生たちの言葉に嘘はないでしょうし、言わない学生よりはずっと「好ましく」感じるのですが、それでもその「さわやかさ」は気になります。このような演習は、医療者や学生の心を多少なりとも「ぞわぞわ」させてしまうもののはずです。そんな言葉が聞きたいのですが、聞きだせないのは私たちの力不足なのかもしれません。
「こんな演習に何の意味があるのか」と陰で言っていた医学生(No.252)、「こんなのどうせ真似事だから」と投げやりの面接をしたことを非難され、あらためて「完璧な」面接をした医学生(No.252, No.253)、糖尿病の(模擬)患者に「どうして入院されたのですか」という言葉で面接を始めて周囲を戸惑わせた薬学生(No.267)。医療について真剣に考えていればいるほど、あるいは自らがつらい病者体験をしていれば(当の学生がそうであったかどうかはわかりません)、このような思いが生まれてくるほうが自然です。入院までの経緯がわからなければ服薬指導などできるはずないと考える方がまともです。指導教員は、彼らが言いたかったこと、彼らの思いを受け止めて、一緒に考えてくれたでしょうか。受け止めなければ、彼らは「所詮、演習なんてこの程度のものだ」と思い、医学教育への評価を下げていきます。
このような時こそ、教育にとって絶好の機会です。一見「ひどい筆」に出会ったとき、だからこそその筆で見事に書いてみたいと思うのが「弘法」だという気がします。「不器用」な学生が好きで、ノイズ(ノイズについてはNo.59-No.60でも書きました)に出会うと「チャンス」とワクワクしながら、こうした学生のその後の人生に心惹かれつつ、そこから事態を臨機応変に展開するような人が教育者です。そこは、私たちもたくさんのことを学ばせてもらえる宝庫です。
そして、その後のカオスのような展開についての「楽しい」情報を伝えてもらえることこそが、模擬患者のインセンティブを高めるのではないでしょうか。(2021.02)
1) このように書いたからと言って、医学教育が(いわんや模擬患者活動程度のことが)医療を大元から大きく変えるというような幻想を、もちろん私は端から抱いてはいません。相手はそんな「やわな」ものではありません。反作用として「現状を強化する」ことのほうがずっと多いことも「想定内」です。だから、「幻想を抱く人は、すぐに幻滅する。幻想を持たずに希望を持つ」という岸政彦さんの言葉にいたく同感しています。
2) 診療・研究(治験など)・教育などへの「患者・市民の参画」が語られるようになりましたが、それは医療者の土俵に患者・市民を引き上げるという要素のほうが強いと思います。
3) OSCEの評価者などという「余分」なことをして下さる「お医者様」に対して、「指導」がましいことは言いにくいものです(「へそを曲げられ」ては困りますから「なだめたり賺したり」して協力してもらわなければなりません)。でも、それは医療の改革を、「医師が変わる」ことではなく「患者が変わる」ことに求めることと同じではないでしょうか。だから「賢い患者になりましょう」という言葉にも危うさがあるのです(その真意に、私は反対しているわけではありませんが)。「患者団体も、医者に協力するものは良いけれど、文句を言うものは困る」という医者の言葉を聞いて唖然としてしまったのは40年以上も前のことですが、今もその体質は変わっていないのでしょう(No.107でも書きました)。
4) 「『人間がAIに近づいている』ように思えてきます。あたかもAIのように、自分の行為の意味なんか考えずに『統計上、やったらほめられそうなこと』を繰り返し続けるのが、いちばん効率のいいライフハック(処世術)なんだと。」「『とりあえずこう言っておけば評価される』ことを唱えるだけの人ほど出世していく状況」(斎藤環・与那覇潤『心を病んだらいけないの?』新潮選書2020)。医学教育に関わる人たちが、こうした「表層型人間」を育てていることに満足しているということはないでしょうか(「アンケートを取ったところ、この教育の意義を認める学生が○○%だったから、良い試みだった」などという報告は、その典型です)。「表層型人間」は政治の世界でも学問の世界でも言論の世界でももう十分見飽きてしまいましたが、学生たちはその姿から学んでいることでしょう。
日下 隼人