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No.335 「どうして?」

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 医療の場に限ったことではありませんが、「どうして、わからないの?」「どうして、そんなことを考えるの?」「どうして、そんなことしてしまうの?」と思わされる人と出会うことは珍しいことではありません。
 繰り返し話し合っても、通じない人が居ます。「こんなに大事なことなのに、どうしてもわかってくれない」「説明するたびに、その時は『わかりました』と言うのに、同じことをまたしてしまう」困った人がいます。でも、そのような人が「理解力が低い」「素直さが欠けている」とはかぎりません 1)。その人の「正邪」「正誤」の座標軸がこちらの「正邪」「正誤」の座標軸と違っているのかもしれません。そのような場合、「わかりました」というのは話を終わらせるための言葉に過ぎません 2)。だから、「わかりました」と言ったのに、またぜんぜん「わかっていない」行動をとってしまいます。「どうしてこんな簡単なことができないの(わからないの)」「ちょっと考えを変えれば良いだけなのに」とこちらは思いますが、その人にとってはこれまで長い間の人生を支えてきた座標軸に基づいての考えや行動ですから、それを変えることは簡単なことではありません。これまでの人生の否定になりかねません。「死と再生」が簡単にできるはずもありません。
 医療者は一定の共通の座標軸を持っていますので、違う座標軸を持つ人のことは非常識に見えます。こちらの座標軸を変える必要は全くありませんが、相手の座標軸は違うかもしれないという視点を持たないまま説得や指導をいくら重ねてもお互いの価値観は平行線のままで、相互に否定的な評価だけが膨らんでしまいます。こちらが「困った患者だ」と呆れている時には、患者さんのほうも「わからんちんの医療者だ」と呆れていることが少なくないでしょう。
 医療者のほうが、相手の座標軸に一時的に身を置いて、そこで患者さんと話し合ってみるという方法があると思います。「どうして」という問いを、相手に向けるのではなく(と同時に)、「どうして、自分にはこの人の気持ち・考えていることがわからないのだろう」「自分には見えていない『何か』があるのではないだろうか」と自分に向けてみると、世界は違って見えてくるのではないでしょうか 3)。そこに患者さんとつながる途があるはずです。「そんなことしていられない」「もう疲れた」と言うことは、プロフェッショナルであることを断念することです。(2019.10)

1) 認知機能の問題への目配りも欠かせないのかもしれません。宮口幸治さんは、「境界知能」や「軽度知的障害」について、それに対応した支援が必要であると述べています。これらの人の特徴として宮口さんは、「日常生活は大過なくできるが(そのため気づかれにくい)、認知機能が弱い、感情統制ができにくい、融通が利かない、自己評価が不適切、対人スキルが乏しい、(+身体的不器用さ)」を挙げています。(「ケーキの切れない非行少年たち」新潮新書2019) いくつかの特徴は医者にもあてはまる人が結構いそうですが、それは認知機能の問題であるよりはパーソナリティの問題なのでしょう。「権威主義的パーソナリティ」(E.フロム)なのかもしれません。

2) 「わかりました」にも、「話を聞いていますよ」「言っていることはわかりましたよ(だから、もう話はいいです)」「言っていることに同意するし、これからはそのようにします」といったいくつかの意味があると思います。話を聞いているときの頷きと同じです。

3) 「不可解なもの・奇妙なものに対して、なおも好意の原理(デイヴィドソン)を適用して、それを理解しようと努める態度をもしとりつづるとすれば、そこには、解釈する側のあり方・考え方が変化する可能性があることになる。相手はなぜそのような奇妙なことを言うのか―これを理解しようとすれば、解釈者は相手の発言を入れるべき文脈を様々に構成するべく試みることになろう。そして、文脈といえども信念の網目であるということからすれば、この網目は結局のところ解釈者自身の信念の網目であるということからすれば、この努力はまさに、解釈者自身の信念の網目を編みなおすという意味で『自己変革』に至りうる努力なのである。」(富田恭彦「クワインと現代アメリカ哲学」世界思想社1994)

コミュニケーションのススメ 日下 隼人 コラム

● 本コラムの内容は、著者 日下 隼人の個人的な意見であり、マイインフォームド・コンセントの法人としての考え、および活動に参加しておられる模擬患者さんたちのお考えとは関係ありません。

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