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No.233 黒子

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 ある講演の時、司会者がメモを見ずに私の経歴を詳しく紹介してくれました。記憶力が悪い私はそれを聞いているだけで恐れ入りましたが、少し違和感も抱いてしまいました。その違和感が生まれたのは、司会者が目立ってしまったような気がしたからではないかとあとで思い至りました(やきもちではありません)。聴衆はたいてい「すごいな、あんなにぜんぶ記憶しているんだ」とそこで、まず司会者に感心します。そのときその司会者は、意識していないにしても、自己の「存在を主張」してしまっています。自分を背景に下げて目立たなくして、講演者を「立てる」ことが司会の仕事なのだということに、あらためて気がつきました。これまで何度も司会をしてきた自分は大丈夫かと不安もなってしまいました、もう手遅れですが。
 自分の存在を、なるべく背景に退かせて目立たないようにするというのは一つの「技」です。とりわけ「調整役」には欠かせない技です。私は、3度にわたり武蔵野赤十字病院で病院建築の病院側担当者として院内調整にあたりましたが、そこで少しだけこの「技」が身に付いたような気がします(自分で思い込んでいるだけかもしれませんが)。各部署の人たちの要望を何度も聴き、その希望を整理してまとめなおした上であらためて討議し、関連する他の部署の要望やもともとの計画と調整して(すりあわせて)図面を書き直し、それに応じて当初考えられていた運用の手順を修正し、そのことを病院の管理会議に認めてもらい、という作業を繰り返していました。あくまでも主役は現場で働く人で、私はその思いが生きるように調整する下働きに徹することを心がけました。病院建築の仕事も、私にとってはコミュニケーションを学ぶ場でした。
 自分をなるべく背景に退かせる姿勢は、医療の場でも生きると思います。医者も「調整役」であることのほうが、事態はうまく進むような気がします。いろいろな人がいろいろな要望を言い、いろいろな人が思い思いに「勝手な」ことをしてしまう混沌の中で、さりげなく調整に走り回る黒子のような存在。歌舞伎でも文楽でも、黒子はその姿が見えなくなっているわけではありません。黒子のしていることも観客には見えています。でも、その黒子は「見ないでおく」ことにされ、黒子自身「居ない者」として振る舞います。調整が功を奏してみんなが多少なりも気持ちよくなってくれれば、そのことが嬉しいし、その目標に向かっていると思えば日々の「苦労」にワクワクする。そんな黒子であることが楽しめると、医者の仕事はずいぶんちがったものになってくると思うのですが。(2016.02)

コミュニケーションのススメ 日下 隼人 コラム

● 本コラムの内容は、著者 日下 隼人の個人的な意見であり、マイインフォームド・コンセントの法人としての考え、および活動に参加しておられる模擬患者さんたちのお考えとは関係ありません。

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