No.384 どんなに忙しくても暇そうにしていなさい
コラム目次へ 「どんなに忙しくても暇そうにしていなさい。忙しそうな人に向かって話そうという人などいないのだから」という樋野興夫氏の言葉を畠山未来氏が紹介していました(「遺伝子医学」36号 Vol.11 No.2) 。これは「相談窓口」担当者に向けての言葉ですが、医療面接を含めて患者さんとのおつきあいすべてにそのままあてはまると思います。「面接中に時計を見るな」というようなことはこれまでもコミュニケーション教育でよく言われてきたことですが、「暇そうにしていろ」とはなかなか言われません。「暇そうにしている」ということは相手の話をじっくり聴くということですし、暇そうに見える人にはいろいろなことを話してくれるかもしれません。「暇そう」にしていることを心がけていれば、面接技法と言われるものは自然に出てくるでしょう。共感的な言葉もつい口をついてしまいそうです。「どんどん質問を重ねて」相手を追い詰めてしまうこともないでしょう。「うまく」暇そうにすることは「わざ」で、コミュニケーション教育ではこうしたことを伝えることが大切だと思います。
最近では、私の医者らしい仕事は乳幼児健診だけになってしまいました。診察の前にその子供のファイルにさっと目を通して、母親が保健師と交わした会話の記録も読むようにしています。「いろいろ手伝ってくれるのだが、ツラさがわかってくれない」「・・・ができてないと、『○○すれば良かったんじゃない』と言われて腹が立つ」という言葉を見た時には、医療のことを言われているような気がしました。
ツラさをわかりきることはできないのだから、できるだけ手伝おうとすることはケアの基本です。それでも、いろいろケアをしてくれていることはわかっても「ツラさがわかってくれない」という寂しさ/いたたまれなさが忍び寄ってくることがあるということを、医療者は忘れてはならないのだと思います。患者さんの「ツラさ」はわかるべくもないけれど、そのことを自覚してつきあっているでしょうか。自覚しないどころか、「わかった」気になってつきあっていることも少なくないかもしれません。アドバイスのつもりの言葉に「非難されている」と感じてしまう人は少なくないでしょうし(事実、多少なりともそのニュアンスが混じりがちです)、その言葉にいっそう追い詰められてしまうこともありがちです。
「助けが必要な時はいつでも言うんやで。それは甘えと違う」と書いている人が居ました。その言葉の「優しさ」に助けられる人たちがいっぱいいると思うのですが、そもそも「つらい状況にある人」にとっては「甘えてもよい」のではなく甘えることこそ権利です。なによりも「助けが必要な時」を自分で判断すること自体が難しいのです。つらい時に「つらい」と声をあげられる雰囲気を整えることが、まずは「援助」の始まりだと思います。「いつでも言うんやで」と「申し渡される」ことは、「弱い」立場であることを思い知らされることでもあります。「許されて何かするのは好きじゃない すぐに『いいよ』と君は言うけど」(佐藤真由美 折々の言葉1748 2020.3.5)。医療の場では、「いいですよ」といった許可の言葉がなんと頻繁に投げかけられていることか。かといって、「忖度」と「阿吽の呼吸」がうまくマッチすることは滅多にないので、ケアの場で私たちはすれ違い続けていくしかないのです。コミュニケーション教育では、そうしたことも伝えたい。(2021.12)
日下 隼人