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No.304 家族は互いに助け合わなければならない?

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 2012年の自民党憲法改正草案では、第24条に「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない」という文章が付け加えられ、「婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立し」から「のみ」が削除されています(「のみ」が削除されることで、どのようなものが入り込んでくるのでしょう?)。
 「互いに助け合わなければならない」と私たちは国から言われなければならないでしょうか。憲法は、国のあるべき姿を明記するものであって、国民の生き方を指図するものではないはずです。「家族が助け合える環境を国は提供しなければならない」ならありうるかもしれませんが。
 No.303でも書きましたが、在宅医療のすばらしさを語る言説が溢れています 1)。でも、在宅医療は家族の「大きな負担」なしには不可能です。在宅医療の推進が声高に語られている現状を踏まえてこの文章を読み直してみると、在宅介護を、そして医療そのものをできるだけ家族に負わさせる(ことで医療費を抑制する)つもりではないかと「邪推」してしまいます。「大きな負担」を担うことが喜びである人はもちろんいるでしょうが、疲弊してしまう人も少なくないでしょう。今は喜びの言葉ばかりが語られているようです。
 マーサ・C・ヌスバウムは、エヴァ・キティの「現在の法的状況にある明らかな欠陥のひとつは、家族における女性の仕事が仕事として認められていないことである。この状況を改善する最良の方法はケアの仕事をする家族の構成員に直接の支払いをすることだ 2)」「そのような支払いを給料のように扱い、当該の仕事に社会的な尊厳および承認をもたらすことがそもそもの発想であることから、そのような支払いは収入調査に基づくべきではない」という提案を紹介しています 3) (「正義のフロンティア」法政大学出版局2012)。このような視野を欠いたまま(あえて伏せたまま)在宅医療が語られていてよいのでしょうか。「家族は助け合うもの」という「美談=神話」(早川タダノリ「まぼろしの「日本的家族」青弓社2018)を根拠として「家族は、互いに助け合わなければならない」ということが国是となれば、「家族の構成員への支払い」などという考えは「許されない」ものであり、そのような主張には罵声を浴びせられるでしょう。
 24条に追加された文章の前半についても、ヌスバウムの「可能力アプローチは・・・家族を社会の基礎構造の一部であるひとつの社会的・政治的な制度してとらえる」という言葉と対比してみると、改正草案は家族というものを自明の前提として、家族を規定する社会性や政治性を排除しようとしていると見るほうがあたっているのかもしれません。
 「自宅のほうがいいよね」という言葉(それなりに妥当なものですが)によって在宅医療を医療の枠内だけで考えていくことは危ういのです。「LGBTは生産性がない」と言う国会議員(この人は「男女平等は絶対に実現しえない反道徳の妄想です」とも言っている)や「国民主権、基本的人権、平和主義(中略)この三つを無くさなければ本当の自主憲法にならない」と言う国会議員 4) がいるとのことですが、こうした言葉は「助け合わない」(と烙印を押された)家族への非難と隣り合わせです。その非難は、いろいろな事情で「助け合うことができない」家族へもただちに向けられるでしょう。そしてこうした言葉は「役に立たない人間(障害者、高齢者、・・・・)はこの国には不要だ」という思想を支えます。「家族を助けない人間」も「役に立たない」と言われてしまうのかもしれません。
 気をつけないと、善意の医療者や市民が「国や制度に頼るな、家族で助け合え」という「企み」の共犯者にさせられてしまいそうです。(2018.08)

1) 地域包括医療システム、在宅医療医、訪問看護などが語られていますが、その体制を担おうとする(担える)医師は決して多くはありません。在宅医療が可能なだけの設備のある家・広い家に住んでいる人も多くはありません。患者さんの病状のつらさを家族だけで見続けていることに耐えられなくなった人・不安な時を過ごさざるを得なかった人(そして、そのことを後悔し続けている人)はいっぱいいます。

2) 介護休暇・介護休業制度、家族介護慰労金、在宅高齢者介護手当、住宅改修費補助金などはありますが、ここで書かれている「支払い」とは違います。

3) これは女性の家事労働を中心に書かれていますので「家族における女性の仕事」と書かれていますが、「家族における介護の仕事」と読み替えることができると思います。

4) この人たちの言葉は、知性や論理と関係なく「威勢のよい言葉」で耳目を集めることを目指していると受け止めるほうが良いのでしょう(だから、もちろん撤回も謝罪もしないでしょう)が、だからといって無視してよいものではないと思います。それに、医学教育やコミュニケーション教育の世界にも、医学そのものの世界にも、同じような物言いがないとは言えないところが残念です。
 「彼等は、自分達の話が、軽率で、あやふやであることはよく承知している。彼等はその話をもてあそんでいるのである。…話をもてあそぶことを楽しんでさえいるのである。なぜなら、滑稽な理屈を並べることによって、話し相手の真面目な調子の信用を失墜できるから。・・・彼等にとって、問題は、正しい議論で相手を承服させることではなく、相手の気勢を挫いたり、戸惑いさせたりすることだからである」J.P.サルトル「ユダヤ人」岩波新書 (自戒の意味をこめて、この文章を引用しています。)

コミュニケーションのススメ 日下 隼人 コラム

● 本コラムの内容は、著者 日下 隼人の個人的な意見であり、マイインフォームド・コンセントの法人としての考え、および活動に参加しておられる模擬患者さんたちのお考えとは関係ありません。

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