No.361 Slice of Life
コラム目次へ あるテレビドラマについてのことです。放送回ごとに内容が「ブツブツ」切れているためについていけないという批評を受けた脚本家は、自分のドラマは「Slice of Lifeを描いているのだ」と反論していました。でも、ドラマというものはもともとSlice of Lifeなのですから、この脚本家の言葉は「負け惜しみ」のようにしか私には聞こえませんでした。それはそれとして、この言葉を目にした時、医療者が病院で見ている患者さんの姿こそその人のslice of lifeでしかないとあらためて思いました。どの人にも長く広く深い人生があります。誰もが様々な思いや考えを抱いて生きています。一人の人生は一冊の分厚い書物です。これから文字が書かれるはずの白紙のページもたくさん用意されている「はてしない物語」です。その人生のほんの一断面だけしか見ていないのに、分厚い書物をほとんど読みもしていないのに、その人の生を簡単に評価し、「指示」「指導」し、その人生を左右するような方針をあっさりと決めてしまいかねないのが医療者です。その「怖さ」に無自覚なことが怖い。
私自身の人生を振り返っても、せっかく分厚い書物に出会ったのに、後になってそれを見過ごしてしまったことに気づいたことが何度もあります。
医師国家試験の発表までの「退屈で不安な」ときに、私は一人で仙台に旅行しました。たまたま東北大学病院の前に至り、医科歯科大学から母校の東北大学教授に転出しておられた福岡良男先生に一言ご挨拶したくなり、不躾にもご連絡もせずに訪問してしまいました。授業にもほとんど出ていなかった私のことを覚えていて下さったとは思えないのですが、先生はとても歓待して下さいました。でも、先生が「軍医のみた大東亜戦争」(暁印書館2004)という本に書かれたような戦争体験をしておられることを知ったのはごく最近のことでした(戦地の慰安所=売春宿について調べていて、そのことが書かれているこの本に出会いました)。
大学に入学した時、当時京都大学教授であった父の叔父から「同級生の恩地豊君が教授をしているから挨拶しておくように」と言われて、あまり乗り気ではないまま教授室を訪室しました。お目にかかったのはその一度きりだったので、先生が太平洋戦争時捕虜となり、そこでアメリカ軍通訳のドナルド・キーンと出会い、終生親交を結んでおられたことなど、知る由もありませんでした。
石巻赤十字病院での講演後、当時病院長であった飯沼一宇先生と会食させて戴いたのですが、先生が白虎隊唯一の生き残り飯沼貞吉の子孫であることも最近知りました。
もう少しお話ししていれば、どの方からもいろいろお話を伺うことができたのにと今更ながら残念に思っています。もしかしたら、少しそのようなお話をなさっていたのに、聞き流してしまっていたのかもしれないという気もしています。
No.339で書いた総山孝雄氏(元・医科歯科大学教授)は、医科歯科大学闘争時、学生部長(歯学部教授)として運動弾圧の先頭に立った人であり、その意味で私には忘れられない人なのですが、従軍慰安婦の悲惨な性奴隷としての実態をその著書「南海のあけぼの」(叢文社1983)で書いていたことも、戦争終了後インドネシアに残留し数年間独立戦争に参加したということも、最近まで知りませんでした(残留したのは、大東亜共栄圏という「理念」を追い求め続けていたのでしょうか)。左翼的な運動を認められるはずがないわけだと、私はあらためて「納得」しました。
逆に、畑尾正彦先生(No.295に詳しく書きました)との出会いのように、武蔵野赤十字病院に勤めることにした時 1) にはそのような人がいることさえ知らなかったのに、とても長く深いおつきあいが生まれることもあるのですが。
slice of lifeしか見ていないのに、医療ができるのは「道具的理性」のお蔭なのでしょう。「とどまるところを知らない道具的理性の拡大は、患者が一個の人格であることを考慮に入れない医療として、また、治療が患者の人生という物語とどう関係しているかに注意を払わない医療、それゆえ何が患者に希望をもたらし、何が患者を絶望に追いやるかに思いをめぐらさない医療、治療者と患者のあいだのなくてはならない信頼関係を顧みない医療として立ち現れてきます。」(チャールズ・テイラー『〈ほんもの〉という倫理』産業図書2004)
「私たちは医療の専門家ですので、医学的なことについてはご説明しますし、道案内もします。でも、患者さんの暮らしやお考えについて私たちは全くわかりませんから、診療に対するご希望やご自分の人生についての思いをぜひ教えてください。その上で、一番良い道を一緒に探していきましょう」と説明していると言う医師に出会って、「ああ、そんな『上手い』言い方があるのか。自分もこんなふうに言えばよかった」と感心したところで、目が覚めました。テイラーの本を読んだから、そんな夢を見たのでしょうか。もう私が直接患者さんにこのようなことを言う機会はなさそうですが、それでも折があればこんなふうに言ってみよう(私に医学的に適切な道案内ができるか心もとない限りですが)。(2021.01)
1) 私は、医局人事から勝手に外れて、自分で武蔵野赤十字病院を探し出して就職しました(医科歯科大関連の人がほんの少しいたことが手掛かりでした)。そのとき、私は、この病院を医科歯科大学の(学生運動をした)卒業生が集まることのできる病院にしたいという下心を抱いていました。結果的には、学生運動をした人が同じ思いで一つの病院に集まるというようなことが現実的なわけもなく、その後、普通の医科歯科大関連の医者がどんどん増えて「ただの」関連病院になってしまいました(それも私の下心の一つでなかったと言えば嘘になりますが)。それとは関係なく、私は思いがけないたくさんの貴重な出会いに恵まれることになりました。
日下 隼人