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No.382 差別はたいてい悪意のない人がする

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 知念実希人という医者で作家がいます。その「いや、マジでなんで外国籍の作家さんがここまで露骨に日本で政治活動しているのか、私には意味が分からない。この方(李琴峰さん:台湾籍の在日作家。「彼岸花が咲く島」で2021年前記芥川賞受賞)の芥川賞受賞式の発言やツイートからは、安倍前首相や自民党に対するヘイトが迸りすぎていて怖い」というツィートに対して、多くの批判が起きました。
 批判を受けて知念はいくつもの謝罪をしたのですが、「物書き」というのはうまく論点をずらすものだと感心しました。
 まず、「今年に入ってから、このコロナ禍を終わらせる最大の武器となるワクチンについてのデマを消していくという作業に尽力してきましたがその結果、次第に私自身の攻撃性が上がり、傲慢になっていったと自分自身を分析しております」と言うのですが、仕事に忙殺され冷静でいられなくなった時に出てくる言葉こそ、その人の本心です。問題は「攻撃性が上がった」ことではなく、その時に出てきた本心のほうです。
 「『外国籍の方の政治活動は禁止されている』という私の思い込みで発言してしまいました。 調べたところ政治資金等の制限があるだけで、そのような事実はございませんでした。 謝罪し、撤回いたします」と続くのですが、「外国籍の人に政治活動をする権利がない」と思うこと自体に端なくも現れた人権感覚の欠如です。「外国籍の人に政治活動をする権利がない」ことのほうがおかしいのです。調和の名のもとに多様性を抑え込もうとする姿勢です。
 そして、「李さんが外国籍であることに対して、差別的な発言をしてしまいました。これは私の中にある差別意識が、肥大し制御が難しくなっていた自意識によりとっさに出てしまったもので、これにつきましても極めて恥ずべき行為だと自覚し、猛省しております」と書いています。でも、「外国籍」という言葉にはごまかしがあります。政治的発言や政治活動をしている白人もこの国にはいっぱいいるのに、それらの人については言及したことがありません(歴史修正主義を喧伝する政治活動をしているアメリカ人もいます)。日本以外のアジアの人々に対しての差別意識が「外国籍」という言葉で薄められています。さらに、ここにはきっと女性差別があります。レベッカ・ソルニットは「女性が男性、特に体制の中心にいる人物を批判すると、女性の主張が事実であるかどうかはおろか、話をする能力やその権利があるかどうかまで疑いにかけられる」(『説教したがる男たち』左右社2018)と言っています。「安倍前首相や自民党」を擁護する発言であれば、彼は誉めていたかもしれません。政治家(とりわけ政権担当者)に対して厳しい言葉を投げかけたくなるほど、李さんのような立場に置かれた人に向かって排外的で卑劣な言葉がたくさんぶつけられてきた背景は、意図的に無視されています。こうした背景無視は「弱い者いじめ」の常套手段です。
 ヘイトという言葉も、ヘイトスピーチ規制法では「本邦外出身者に対する不当な差別的言動」と規定されており、政治権力に対する批判に使うのは少なくとも作家としては不適当です。最近では、批判や悪口を何でも「ヘイト発言だ」と言う人は少なくありません。言語哲学者/三木那由他さん「"racism"が本来は人種に基づく抑圧構造への加担を指す言葉なのに、抑圧者側が単に『人種で扱いを変えること』くらいに捉え直し、その用法を広めることで、差別の指摘を無効化し、抑圧を強化している」と指摘しています。この“racism”をそのまま「ヘイト」にあてはまります。「不当な差別的言動」を「相手の悪口を言う」くらいに捉え返すことで「差別の指摘を無効化し、抑圧を強化している」のです。
 知念のファンからは、「謝罪して偉い」「十分謝っているのだから、これ以上責めなくともよいではないか」「これだけ謝っているのに、どうして許さないのだ」というコメントが多数寄せられていました。だが、「謝れば許してくれるはずだ」「謝っているのに、許さないのはひどい」というような思いは、謝罪とは無縁です。「許してもらえるかどうかは関係ない。とにかく謝る」というのが謝罪です。知念が心から謝っているとしたらファンの言葉は「ひいきの引き倒し」ですが、論点ずらしの謝罪にとっては「渡りに船」です。医療現場での謝罪でも、「謝ったのだから許してくれるのが当然(こちらが謝っているのに許さないのは、相手が悪い)」といった感じの謝罪を見聞きしますが、そのような思いが透けて見える謝罪を心から受け入れてくれる人はいません 1)
 「李さんと和解しているのだから良いではないか」という人もいましたが、ここには差別された人の気持ちに思いが及んでいません。李さんがどのような思いで「和解」したのか。苦い思いを呑み込んでの、諦めにも似た「赦し」のようなものかもしれないのです(李さんは、それまでの自分の言葉がきつすぎたという反省もしています)。
 「沖縄も、昔は差別があったそうだから・・・」と書いているファンがいたのには驚きました。本人は善意で知念を戒めているつもりのようなのですが、これは現在沖縄に生きている人への差別です。『差別は たいてい悪意のない人がする』のです(キム・ジヘ 大月書店2021)。

 医療の場で、自分のくらしの場で、わが身を顧みなければならないたくさんのことを、私はひとりの医師/作家の言動から学びました。(2021.11)

1) 2015年、時の総理大臣は談話で「あの戦争には何らかかわりのない、わたしたちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」と言った。でも、これは「加害者」の側が一方的に言うべき言葉ではない。原田正純さんは「本当のもやい直しっていうのは、被害者が手を差し伸べるような条件を作ることでしょ。・・・殴られた方が、『日本がそれだけ一生懸命やってくれるんだったら、もう仲直りしましょう』って向こうから手を出してくるなら話はわかる」と言った(「もやい直し」=「ばらばらになってしまった心のきずなをもう一度つなぎあわせる」という意味の造語で、水俣病被害者が提唱し始めたとされる)。
 歴史修正主義が跋扈し(政権自体が徴用工問題や慰安婦問題に否定的な発言を繰り返しており、それがヘイト発言を加速している)、それが教育現場に押し付けられつつある現状を許している限り、和解は生まれない。その結果、この先の世代は不本意な謝罪を続けるか、ヘイトを肥大させるしかなくなる。過去のある時期に不適切であった自国の歴史の事実をしっかり認めることは「誇り高い」ことであって、自虐などではない。そのことを誇り高く教えていけば、先の世代は、そこから和解、そして新たな付き合い方を見いだしていくだろう。「謝罪をつづけるか、終わりにするか」といった二者択一的な言い方はごまかしでしかないし、そこには先の世代への信頼が無い。
 医療事故が起きたとき、医療事故の事実と責任を認め、そのうえでお互いの利害が一致するところまで立ち返って、その共通するところから解決を見いだしていく医療メディエーションが医療現場に導入されて15年以上になる。医療安全がたどり着いた地点から見れば、なんと遅れたところにとどまっていることか。もちろん、国レベルのことだから容易なことではないだろうが、医療メディエーションだって容易なことではない。


日下 隼人

コミュニケーションのススメ 日下 隼人 コラム

● 本コラムの内容は、著者 日下 隼人の個人的な意見であり、マイインフォームド・コンセントの法人としての考え、および活動に参加しておられる模擬患者さんたちのお考えとは関係ありません。

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