メインビジュアル

No.441 ACPは「生きる希望の灯」を灯すか?(3)

コラム目次へ

 「終末期医療を改善する」のも「医療の質を高める」のも「QOLを高める」のも患者さん本人の力と、その力を信じて支えようとする医療者の関わりがあってのことです。
 ACPについて患者/家族と医療者とが話し合うことで、その関わりが深まり、信頼関係が育つ場合は間違いなくあるでしょう。
 でも、「あとはACPで「決めた」通りにすれば良い」「何度も話し合うのは面倒」「ACPがあるので、仕事の手間が省ける(面倒なことが避けられる)」「親戚などが文句を言ってきても、「無視」できる(そう明言する人がいた)」などと医療者が思うようなら、医療の質もQOLも低下し、粗末な終末期医療になるしかありません。ACPが終末期医療を「改善しない」ばかりか、悪化させてしまいます。
 医療者との良い付き合いによって、患者さんは生きる意味、生きる希望を膨らませることができるでしょう。ACPがその契機となり得ることはあると思いますが、それ以上のものではありえません。求められるのは、「良い付き合い」です。

 急性期病院では、短期間の入院で転院させられてしまうのに、しばしば入院早々に(しばしば初対面の)医者や看護師とACPについて話し合わされて、そこから「生きる希望」が生まれるとしたら「奇跡(異様)」です。そんなことがあるとしたら、そこでは、圧倒的に弱い立場(とりわけ入院早々はそうです)の患者さんが身を低くして「身を引き」ながら自分で「希望」を探しているのです。(No.338「深度が違う」にも書きました。)

 高度急性期病院/地域医療支援病院は診療密度が高い治療に専念し、そこで必要な治療が終了後には別の病院(後方病院)に引き継ぐ(転院する)か「かかりつけ医や在宅医療中心として、時々、重症度に応じた病院への入院」という流れ。プレッシャーは、診療報酬や病院の認定という「外圧」です。
 患者さんから見れば、自分の人生が細切れにされて、処理されるような気がするのではないでしょうか。流れ作業に乗せられるかのようです。一つのステップを過ぎたと判断されると、「はい、次に行って」と押し出されます。「行きたくない」と言っても、制度を楯に「わがまま」として説得されます。
 治療を受ける施設が変わるたびに、(当然のことですが)接する医療者が次々に変わります。誰も「最初から最後まで、責任もってお世話します」とは言ってくれません。入院した日から、「ウチはここまでしかやりませんから」と言われてしまいます(言わないまでも、その雰囲気が滲み出ます)。そのような人と信頼関係を作ろうと思えるでしょうか。
 「いやな」医療者と出会っても、その付き合いを早々に切り上げられるというメリットもあるかもしれませんが、気を遣わなければならない医療者が増えるという負担が増すことは確かです。身体の具合が悪いのに、気を遣うべき人が増えるばかりです。気の合う人を選べる可能性は増えますが、その人がいざと言うときにそばに居てくれるとは限りません。

 転院ごとに「申し送り」はされるでしょう。でも、その申し送りはしばしば医学的なことに留まっています。どんな患者さんかということについて(患者さんの生き方、人生観、希望など)は、医療者の眼から見たものしか申し送られないことが少なくありません。
 医療者にとって「不都合なこと」(患者さんについての否定的な評価)は申し送られます。「好意的」な評価だって「物わかりが良い」「聞き分けが良い」「穏やかな」「受容している」と、医療者中心です。
 そもそも、申し送りの内容が患者さんに開示されているでしょうか。「これで良いですか」と当の患者さんに相談されているでしょうか。(2025.06)


日下 隼人

コミュニケーションのススメ 日下 隼人 コラム

● 本コラムの内容は、著者 日下 隼人の個人的な意見であり、マイインフォームド・コンセントの法人としての考え、および活動に参加しておられる模擬患者さんたちのお考えとは関係ありません。

● コラムNo.230 までは、東京SP研究会ウェブサイトにアクセスします。