No.367 引導コンセント
コラム目次へ 「とどめ刺す『セカンドオピニオン』はより苦しみを与えるのでは」と佐々木常雄さんが書いています(日刊ゲンダイ ヘルスケア「がんと向き合い生きていく」2020.10.14)。「医師は患者本人に真実を話します。その場しのぎで、甘い言葉でウソをつくことはあり得ないのです。しかし、進行したがん患者にとっては、とてもつらい現実です。担当医から『治療法がない』と言われ、それでも、いちるの望みを持ってセカンドオピニオンに来られて、そこでも『もう治療法がない』とダメ押しを告げられる・・・。セカンドオピニオンを受ける医師は、治療法がない場合は、患者にとどめを刺すことになるのです。しかも、初めて会うわけですから、患者がどんな性格の方か、そのようなことは分からないままお話しすることになります。患者にとって『治療法がない』と言われる告知とは、何なのだろうと考えます。とどめを刺す告知は、患者にしてみれば『あきらめろ』と言われているということです」と書いておられます。
同様のことは、「インフォームド・コンセント」でも見られます。「インフォームド・コンセントが定着した」と言われがちですが、それは医者が自分に都合よく使いこなせるようになったということです。もちろん、たいていの医者は、時間をかけて丁寧に説明しますし、機械的に同意書への署名を求めるわけでもありません。「良く考えてみてください」とも言います。患者さんの気持ちを「思いやる」言葉も添えます。でも、そこでの医学知識・経験の圧倒的な差、そして患者さんの不安や混乱が病気の理解を妨げます。医師の説明が不安を増幅させることも少なくないのかもしれません。
十分な説明、繰り返しての説明というのが、「医師たちは、患者や本人がそのこと(病院の方針)を認めきるまで喋りつづけ」(小松美彦『「自己決定権」という罠』言視社2018)ることでしかないこともまれではありません。「まだ、分かってくれない」と、医療側の方針について繰り返し説明を重ねることは、「拷問」に近づいていきます。患者さんが、「医師は、まだわかってくれない」と思っていることに医療者は気づきにくいのです。
「無駄な治療」「無駄な延命」(こうした言葉には、しばしば「社会への迷惑」という思いが見え隠れします)、「もう治療はありません(予後の悪いことをわかってね)」「あとはホスピスを探してください」「家のほうが良いですよ(みんなそうでしたよ)」「しておきたいことがあれば、しておきましょう(覚悟してください/諦めてください 1))などという言葉が、インフォームド・コンセントの名のもとに浴びせられることもまれなことではありません。そして、患者さんが、「わがまま」といわれないようにという思いからか、身近の人々の思いや周囲の事情への気遣いからか、医療側の思惑に沿った「決断」をしたときに、医療者は安堵した顔をします。「やっと、わかってくれた」などと言います。
いつまでも「追いつめられる」ような説明を聞きたくなければ、「同意」するしかありません。それなのに、それからは雑談すらしに来なくなる(あるいは敬遠する)医療者もいます。そこでは、「自己決定」したとされる患者さんだけが取り残されます。それでは、インフォームド・コンセントというより「引導を渡す」ための「引導コンセント」です。「自己決定」は、より周到に管理されたパターナリズムと裏腹です 2)。
スナウラ・テイラーは「この取引(人間が家畜動物を繁栄させ生活や食事を保障するかわりに、家畜が人間のために命を提供するという取引)は『精神的および身体的能力においておおよそ等しい』存在間でなされたのではなく、強い力を持った人間と脆弱な動物のあいだでなされたものだ。この協定が、より力のある人間によって、人間の利益にかなうように作成されたということは火を見るより明らかだ」「動物が様々な能力を欠いていることは、たいていの場合、人間の優越性の証として取り上げられ、人間が動物をみずからの利益のために継続的に利用することを正当化する根拠として見なされる。」(『荷を引く獣たち 動物の解放と障害者の解放』洛北出版2020)と言っています。彼女は、動物を人間に至らぬ不具の存在と考えることが障碍者の差別に汎通するものとして、健常者中心主義を批判しているのです。人間を医者、動物を患者と読み替えることも可能だと私は感じました。テイラーは、マーサ・ヌスバウムの「社会契約論・・・が、障碍者と健常者のあいだの、人間と人間以外のあいだの、物理的および知的非対称に思いを巡らしていない」(『正義のフロンティア』)という指摘を紹介もしています。現在のインフォームド・コンセントのありようも問われていると思います。(2021.04)
1) インフォームド・コンセントは、患者に「希望」の明かりをともすためのものであるはずです。
「希望だ。それがあれば、人間は生きていける」。先の戦争でシベリアに2年余り抑留された老人は、「未来がまったく見えないとき、人間にとって何がいちばん大切か」と問われて、このように答えました(小熊英二『生きて帰ってきた男』岩波新書2015)。島崎敏樹は「自分の前の方があかるくひらけていると、私たちはこころよい。そして自分を守ってくれるうしろだてが背後にいて、両脇には腹蔵なくつきあえる連れが並んでいると、私たちは安心して生きていける」と書いています(『孤独の世界』中公新書1970)。自分が病気になった場合はもちろんですが、家族や親しい人が病気になった場合でも、その瞬間から言葉では表現しきれない「重苦しい」雲が覆いかぶさってきます。あたりが「暗く」なります。重い病気や終末期であれば、暗さは増します(この「重い」は患者さんが感じる重さであって、疾患の重症度と相関するとは限りません)。そのような状況にある人に医学的な説明をするとき、医師は「希望」「(その人の前に広がる)あかるさ」を保障することを目指して語っているでしょうか。「この人ならうしろだてになってくれそう」と感じてもらえるような話し方をしているでしょうか、その思いを伝えているでしょうか。(これはNo.255に書いた文章の一部です。)
2) 「人間が自らを自由であると思っているのは、〈すなわち彼らが自分は自由意志をもってあることをなしあるいはなさざることができると思っているのは〉誤っている。そしてそうした誤った意見は、彼らがただ彼らの行動は意識するが彼らをそれへ決定する諸要因はこれを知らないということにのみ存するのである。だから彼らの自由の観念なるものは彼らが自らの行動の原因を知らないということにあるのである。」(スピノザ『エチカ』第二部定理35備考)
日下 隼人