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No.345 患者さんの話を聞く授業

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 ある医学部で「患者さんの話を聞く授業」を行っているという報告がありました。同じようなことを行っている大学は少なくないと思います。
 でも、患者さんが話すとき、その体験や思いはありのまま語られるわけではありません。つらいことを経験した人は、意識していくつかの言葉を呑んでいるはずです。その言葉を口にしてしまうと「今の自分」の足元が危うくなると感じたら、その言葉は避けるしかありません。そこに潜む思いを、私たちは聞くことができません。
 患者さんの今の心は、「その時」の気持ちとは異なるものです。H.ベルクソンは『物質と記憶』(講談社学術文庫2019)で「人が通常事実と呼んでいるものは、直接直観に現れるそのままの実在ではなく、実在が実践の利害関心並びに社会的生の要求に順応させられたものだ。純粋な直観は、外的なものであれ、内的なものであれ、分かたれざる連続性のそれである。だが、われわれは、それを並置された諸要素に細分化して、それがこちらでははっきり区別される言葉に対応し、あちらでは互いに独立した対象に対応していることにしてしまう。・・・経験論の誤りとは、・・・真の経験、すなわち精神とその対象との直接の接触から生まれる経験の代わりに、ばらばらに解体され、そのためにおそらく本性まで歪められて、いずれにしても行為と言語が最も容易になるように改変された経験を持ち出してしまう点にある」と書いています 1)
 中村昇さんは『ベルクソン=時間と空間の哲学』(講談社選書メチエ2014)で、「言語によって、たえず運動しているものを表現してしまうと、その運動は消えてしまう。言語は静物しかえがけない。そして、うごきつづけるその独自の在り方とはことなる一般的な観念へと変質させてしまう」と書いています。またベルクソンの「直感から分析へ移ることはできるが、分析から直観へ移ることはできない(『思考と動き』平凡社2013)」という言葉を踏まえて、「持続という実在の相からは、固定され、数量化された相へは移行できるが、その逆はできない」とも。

 患者さんの話を聞いた学生が、そのまま「患者さんとはこういうものだ」「患者さんはこんなふうに感じるのだ」と鵜呑みにしてしまうとしたら、それは危い。「話を聞いてあげた」などと思えば傲慢さにつながります。病むことは対象化しきれない体験です。患者さんの話を聞いて、患者さんの心を操作可能、了解可能なものとして受け止めてしまっても困ります。「わかった気がする」ことはあり得ますが、それは医療者として目の前の患者さんと懸命に付き合っているときに、一瞬ひらめくものなのです。
 講義で伝えられるべきは、「患者さんの話」の内容ではなく、「患者さんの話を聴くことの意義」です 2)。臨床医である限り、患者さんの話を聴くことは患者さんを支えることなのです。患者さんの気持ちが「分かる」ことも、「気持ちへの処方箋」をやすやすと出すことも必要ありませんし、できることでもありません。「患者さんの話を聴く」と言うことは、「患者さんの混沌の中に身を置く」ということです。「傘をさしかけるだけでなく、ともに(雨に)濡れる」ことです(中村ユキ No.324でも引用しました)。中井久夫さんの「何よりも大切なのは『希望を処方する』ということです」(『こんなとき私はどうしているか』医学書院2007)という言葉は、このような意味のものとして私には刺さりました。(2020.03)

1) 「西田幾多郎の『純粋経験』とは、赤ん坊の経験や芸術家や宗教家の至高体験のようなものをさす。自他未分の〈経験そのもの〉だけの状態である。そこには、主観も客観もない。・・・・このように変化しつづける印象だけがあり、それを、われわれは言語によって固定し、安心して社会生活を営む。・・・つまり、特定の視点から外界を切り取り生活していく。」(中村昇 前掲書)

2) 医学教育や看護関係の論文を読むことに私はあまりなじめない。定型に嵌った文章と末尾の内外の論文の羅列(私も査読をしたときには、そのような文体であることを求めた)。そこからは、「ケアする(教育する)ことが楽しくて仕方ない」「医療(教育)が楽しくて仕方ない」「医療者(教育者)として生きていてよかった」「患者さん(学生・研修医)と会えて良かった」というワクワクした思いが伝わってこない。文章が生まれる前には「生き生きした付き合い」があったに違いない(と信じたい)のだが、その息吹が消されていることが歯がゆい。コルクを齧らされているかのようだ。もちろん「こうした研究には意味がない」とは思っていないし、ケアの質的研究からはいろいろ教えられることも多い。論文を書いている者の変容していく様子、患者と医療者との相互関係の混沌とした様子が窺えるものに出会うと嬉しい。とはいえ、質的研究でも患者を対象化している印象の強いものもあるし、医学教育の論文では「生き生きした付き合い」は消滅していて、そうしたものを読んだ後にはなじめない思いばかりが残っていく。「抽象的な言語、つまり『科学的な』言語ばかり話していると、単に精神を物質的に模倣したものしか入手できない。」(ベルクソン『思考と動き』)


日下 隼人

コミュニケーションのススメ 日下 隼人 コラム

● 本コラムの内容は、著者 日下 隼人の個人的な意見であり、マイインフォームド・コンセントの法人としての考え、および活動に参加しておられる模擬患者さんたちのお考えとは関係ありません。

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