メインビジュアル

No.385 認定標準模擬患者

コラム目次へ

 畑尾先生を班長とする〈医師国家試験へのOSCE導入についての研究班〉に参加させていただいた時、「医療面接演習がめざしている良いコミュニケーションのための教育は、試験とはなじまないのではないですか?」という私の問いに、「日本の教育は試験をしないといつまでも変わらないから」と先生が言われたことは、以前にも書きました(No.362)。なるほどとは思ったのですが、それが「(模擬)患者と医療者とが、望ましい医療の在り方を一緒に考えていくこと」につながるのだろうかと不安にも感じました。案の定、試験となると、学生は「それさえ通れば、それでよい」となりがちですし、教師は試験として「きちんとした」システムを作ることに目が向いてしまうようになりました。
 近いうちに臨床実習前OSCEに通らなければ実習に出られないようになるそうです(臨床実習後OSCEを国家試験相当のものとすることも目指されています)。そこで、OSCEの医療面接に協力してもらう模擬患者の標準化が必要だということになり、医療系大学間共用試験実施評価機構から認定された(ペーパーテストと実技の監査による)「認定標準模擬患者」だけがOSCEに協力するとのことです。その説明会が先日ありました。この流れが分からないわけではありません。もともと「優等生」の大学教員たちですから、試験方法や結果に異論が出ないようにしておきたい(試験についての不公平感を避けたい。不確定な要素を極力減らしたい)と思います。そのために、模擬患者にも評価者にもトレーニングをして、バラツキをできるだけ減らそうと思うのはある意味では「自然な」ことです。でも、制度化するということはどうしても「お役所的」な作業にならざるをえないので、説明会での聴衆からの質問に対する答えもいかにもお役人的なものでした。

 25年ほど前、私が模擬患者活動のお手伝いを始めたころ、みんなワクワクしていました(と私は感じました)。模擬患者をやろうとする方々は、医療についていろいろな思いを抱えておられます。ご自分の体験から、多少なりとも医療に「批判的な」思いを抱いている方もいます。でも、「医学生を厳しく鍛えよう」「批判的な思いをぶつけてやろう」ではなく、「どんな思いを伝えたいか」「どうしたら教育に協力できるか」「どうすれば自分たちの願いを穏やかに(受け入れられやすいように)伝えられるか」と、いつも話し合っていました。その会話そのものの中に医療が抱えている問題の解決への途が示されているように、私には感じられました。そして、実際の演習(当時は病院や看護の学校のほうが多かった)で医療者とやり取りすること自体が「楽しく」、終了後にはその日の模擬患者としての「出来」や面接してくれた人の反応に「一喜一憂」しながら、さわやかな反省会をしていました。「(模擬)患者と医療者とが、望ましい医療の在り方を一緒に考えていくこと」に向けて歩みだした気がしました(今でも、模擬患者の活動はそうしたものだと思っています)。
 しかし、今回のように制度化しようとすると、こうした楽しさや感動は影をひそめるしかありません(取り除かれてしまいます)。説明会で、模擬患者に対して協力者としての感謝の言葉は述べられていました。でも、OSCEに関するかぎり、模擬患者は道具としての有効性のみが求められ、「病いを抱えた人生」を医療者と一緒に考える「仲間」とは考えられていないようです(「そういうのは別のところでやってね」という意味の説明がありました)。「お上から認定される模擬患者」と「認定するお上の仲間である医者」との間の非対称性は覆うべくもなく、そのような非対称性の中で一緒に考えることは難しいでしょう。
 標準模擬患者には学生を「評価」することも求められていますが、それは親しみを込めたフィードバックとは全く別物です。「形成的評価なしに総括的評価を行ってはならない」(指導しないで合否判定の試験をしてはいけない)と学びましたが、どの大学でもOSCEを行う前に模擬患者からのフィードバックを受ける医療面接演習が確保されているのか、気になりました。
 学生から見れば、模擬患者は「いやな」試験の協力者であり、自分の合否を評価する人に見えてしまうのではないでしょうか。そうなれば、OSCE以外の場で模擬患者に会っても「模擬患者から人生を学ぶ」という契機・志向は少なくなってしまいそうです。もともとOSCEが教育に取り入れられた意義そのものが変わってしまっているようです 1)。「角を矯めて牛を殺す」ことにならなければ良いのですが。

 説明会では、模擬患者が身体診察を受けることについても検討課題だと言われていました。これまでも何度か書いてきたことですが(例えばNo.362)、OSCEという限られた時間内での身体診察は患者に「触れる」ことはできず、「さわる」ことに留まらざるをえません (「触れる」についてはNo.268でも書きました) 2)。伊藤亜紗さんは「『ふれられる』とは(相手に)主導権を手渡すこと」であり、「ふれる人は、まずその相手に信頼してもらわなければなりません」と言っています(『手の倫理』講談社選書メチエ2020 3))。そうした思いを伝えることなしにOSCEの身体診察が検討されているとしたら、それは危うい 4)。(2022.01)

1) インフォームド・コンセントも、民主主義も基本的人権も、この国ではいつの間にか「輸入物」は、その本来の意義が「都合よく」曲げられてしまいます。インフォームド・コンセントは、しばしば引導コンセントという「押しつけ」になってしまっています(No.367)。

2) たとえ「さわる」であっても、患者さんに触れる医学生ははじめのうち「ためらい」を感じます。その「ためらい」は否応なく時間とともに薄れていくものだからこそ、その「ためらう気持ち」を忘れないことが大切なのだと伝えたい。でも、「医者になったら患者さんの身体を触ることは当たり前なのだから、ためらわずに積極的に触ってほしい」というような指導をする人が居そうなことが怖い(面接でプライバシーに立ち入ることについて、そうしたことを言う人が居たことをNo.260で書きました)。

3) 伊藤さんは同書で、「あらかじめ準備されたメッセージが相手の下で違う意味を持ってしまうことは、コミュニケーションの失敗ではありません。生成モードにおいては、やり取りの中に生じるそうした『ズレ』こそが、次のコミュニケーションを生みだしていく促進要因になるのです」とも言っています。さらに伊藤さんは、水谷雅彦さんの「意味の発生がコミュニケーションの外部に由来するのではなく、まさしくコミュニケーションそのものの内部においてはじめて意味が発生するということ、つまり意味創造の場としてのコミュニケーションという発想こそが肝要なのである」(『コミュニケーションの自然誌』新曜社1997)という言葉を引用しています。OSCEだけでは、「意味創造の場」を伝えようがありません。

4) 「治療者のまなざしや手に触れることで、主体は立ち現われ、あるいは再生する。ただ単に包帯を巻きなおすだけで、一人の人の全体に治療を施すことになる。それが治療の力であり、同時に謙虚さである。」(クレール・マラン『病い、内なる破局』法政大学出版局2021)


日下 隼人

コミュニケーションのススメ 日下 隼人 コラム

● 本コラムの内容は、著者 日下 隼人の個人的な意見であり、マイインフォームド・コンセントの法人としての考え、および活動に参加しておられる模擬患者さんたちのお考えとは関係ありません。

● コラムNo.230 までは、東京SP研究会ウェブサイトにアクセスします。