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No.399 ケアは手から生まれる

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 研修医のオリエンテーションで、看護実習終了後に私と看護部長とがチューターになって“看護”についてのディスカッションを20年以上続けてきました。研修医たちからは「看護の仕事はたいへんだと思ったので、指示の出し方に気をつけたい」「看護師さんが「汚い仕事」をいやな顔もせずにしていることに感心した」「看護師さんは患者さんの話をいろいろ聞いているので、患者さんに近いところに居るのだと思った」といった言葉がいつも聞かれます。
 医療は、病いの辛さに耐えている人のそばに居て、手を添え(手当て)、その人の言うことに耳を傾け、同じ人間どうしとしてできる「ささやかな」ことをていねいに積み重ねていくことです。看護り(みまもり)です。そして、身体のケアや「下の世話」といった仕事をすることを通してはじめて生まれてくるケアがあります。
 更衣の介助、歩行介助、食事介助、清拭、痛いところをさすってもらう、「下の世話」をしてもらうといった場面で、患者さんはケアしてもらう手の温かさを通して「ありがたさ」を感じます。同時に、恥ずかしさ・悔しさ・ふがいなさ・・・といった複雑な思いに捉われ、プライドは傷つきもします。そうした傷ついた思いがあって、ふと(やっと)漏れ出てくる言葉・表情・態度があります。そのように接することでしか見えてこない患者さんの「姿」があり、だからそこからしか生まれないケアがあるのです。こうした付き合いの中で、その人の新たな「姿」(本人にとっても私たちにとっても初めて見る姿)が現れてきます。
 「「わたしがここにいる」ことの重みを感じ、労苦を引き受けてくれる他者の存在によって、自分の存在が確かなものになる、そうしたケアと信頼と葛藤からなる関係性である。わたしが、〈わたし〉であるという意識を持つようになるのは、・・・・他者から受けたケア、つまり注視、気遣い、労苦、葛藤、そして愛情があったからこそ、なのだ。」(岡野八代『フェミニズムの政治学―ケアの倫理をグローバル社会へ』みすず書房2012)
 ケアする人は、自らの五感を通して患者さんの思いを「否応なく」感じてしまいます。患者さんの思いを感じることでケアする人の心も動きます。その心の動きは、ケアする人の手・言葉/声・表情に滲み出て病者に伝わります。その過程で、患者さんもケアする人も自らの思いの蠢きを感じるのです。それぞれの心の様々な思いが交錯する中で、ケアする人も患者さんも、行動する時には瞬時にどのような手・言葉/声・表情を選ぶか決断しています。それがコミュニケーションです。
 行なっているのは例えば「下の世話」でありながら、その時の手・言葉/声・表情がケアしているのは相手の全人格・全人生です。だから、医者は逆立ちしても看護師や介護福祉士の境地には辿り着けないのです。看護の仕事の奥深さを知り、看護師をつねに師と仰がなければ医者は永遠に患者さんに近づけないのだということを伝えたいばかりに、このディスカッションを続けさせてもらっています。
 先日、中井久夫さんの『治療文化論』(岩波書店1990)を読み返したところ、中井さんは治療師としてのイエスにとって「足を洗う」「ひとびとの試みにあいつつ土に字を書く」「手をふれる」の3つに意味があるのではないかと書いておられることに目が止まりました(前に読んだ時には、読み飛ばしていたらしい)。中学・高校とキリスト教系の学校に通いましたので聖書の授業は受けましたが、イエスが病気を治した奇跡についてそのような説明を受けた記憶はありません。
 中井さんはこの3つのことについて、詳しく書いておられます。「鋭敏で重要なセンサーが集中している足を洗うことでその「煤払い」をすることであるかもしれない」、「土に字を書きながら(ということは、相手よりも身を低くしている)相手の問いかけに対決するのでも屈従するのでもなく話を聴くことであり、このことはおのずから相手を再考と鎮静に導く行為でありうる」、そして、「手をふれることは端的な交感である」、こうして人間の相互作用は意識のシキイの下で非常に多くのことが行われているということが示唆される、と。
 患者に「さわる」手は患者を「モノ」として見る目を肥やし、患者さんに「ふれる」手からケアが生まれるのです。(2022.12)


日下 隼人

コミュニケーションのススメ 日下 隼人 コラム

● 本コラムの内容は、著者 日下 隼人の個人的な意見であり、マイインフォームド・コンセントの法人としての考え、および活動に参加しておられる模擬患者さんたちのお考えとは関係ありません。

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