No.236 看守を育てている?
コラム目次へ 社会心理学のジンバルドーが1971年に行った「スタンフォード監獄実験」という有名な実験があります。普通の大学生などの被験者を看守役と受刑者役とにグループ分けし、それぞれの役割を実際の刑務所に近い設備を作って演じさせたところ、時間が経つに連れ、看守役の被験者はより看守らしく(支配的に)なり、受刑者役の被験者はより受刑者らしく(屈従的に)なったという実験です(実験はしだいに非人道的なものとなり中止されました)。強い権力を与えられた人間と力を持たない人間が、狭い空間で常に一緒にいると、次第に理性の歯止めが利かなくなり、暴走してしまい、元々の性格とは関係なく、役割を与えられただけでそのような状態に陥ってしまうことがわかりました。
人は、病名を付けられると患者という存在になり、患者として入院すると(自宅療養を始めると、通院が始まると)患者としての役割を急速に身につけていきます。医師は、医師になってからの時間がたてばたつほど、患者さんを「見下ろす」ことができるようになり、「ざせる」という言葉に抵抗が無くなり、言葉遣いが粗雑になってきます。プロフェッショナリズムについてどのような教育がされても、医療の枠組みという閉じられた空間のほうが教育的効果は大きく、そこで患者を監視・管理する医師という役割の存在に仕上がっていきます。プロフェッショナルの内実は、現場でこそ問われなければなりません(やっぱり「事件は現場で起きている」のです)。
「もしあなたが人間であるなら、私は人間ではない。もし私が人間であるなら、あなたは人間ではない。」ソ連のラーゲリ(強制収容所)で、「人間的に話そう」(ラーゲリでは「これ以上追及しないから、そのかわり我々に協力してくれ」という意味を持つ)ともちかけた取調官に対して囚人の鹿野武一が発したこの言葉は、収容生活を共にした石原吉郎の著書『ペシミストの勇気について』に記されており、そのことを私は鶴見俊輔さんの本で知りました。もう40年近く前のことですが、その瞬間、私には患者と医療者との間で成り立つ会話であるとしか思えませんでした。親戚中が医師だらけで、子どもの時から父の勤める大学や病院に遊びに行くことで、医師という存在への違和感を抱いてしまった(それなのに医師になってしまった)私には、この言葉がすんなりと入ってきました。その思いは今もかわりません。「患者と医療者とは対等な関係として」というような言葉を耳にするたびに、私は鹿野の言葉のほうに真実があると思ってしまいます。病む人と、病む人の思いと隔たったところでその人を操作する人とが、同じ「人間」ではありえません。医療者が圧倒的に強いこの世界で、「対等」という言葉を医療者が言うとしたら、それは欺瞞であり、抑圧でしかありません。「対等」という言葉は、「看守の顔をした医療者」との関係に耐えられなくなった患者が、そのことを医療者に問いかけるために用いるときにのみ意味を持つ言葉だと思います。
清水真砂子は「権力を手にした人々は穏やかに、時に品のいい笑顔さえ浮かべて、闘うべき武器となる言葉を持たない人々を抹殺することができる」と言い、権力を持たない相手に「穏やかなもの言いを求める、その行為の暴力性」を指摘します(「大人になるっておもしろい?」岩波ジュニア新書)。医療は否応なく病む人の自尊心を傷つけ、その「生」に侵入します。そのために患者さんの声が粗く大きくなることはむしろ当たり前のことなのですが、医師の「善意」がそのことを気づきにくくし、「モンスター」などとレッテル貼りをしてしまいます(社会心理学的には「対応バイアス」と言われます)。こうした構造を知っておくことくらいまでは、職業的誠実さの中に入ることだと思います。
プロフェッショナリズム教育は、看守にならないようにするにはどうすればよいかということを伝えることだと私は思います。そのためには「生権力の担い手という役割を果たしていることを自覚した上で、日々看守の位置から身を引きはがしながら生きる」ことを引き受ける構えが必要なのですが、それは次回以降で考えてみたいと思います。(2016.03)