No.310 当事者の言葉
コラム目次へ 先日、高校の同総会誌が送られてきたのですが、卒業生の随想ページに私より一回り下の世代の人が書いている、次のような文章がありました。
「山本義隆と秋田明大といえば、全共闘運動の双璧でしたが、後者が全共闘から足を洗った後はまったくのただのオジサンになったのに比べ、前者は腐っても鯛は鯛で、ずいぶんと多くの著作を残している。・・・その中で今回レビューした本がちょうど私の射程範囲に入ってきたので、躊躇わずにレビューした。」
「腐っても鯛」という言葉にも驚きましたが(山本義隆さんについて「腐っている」という評価は誰もしていないと思います)、きっとこの人は「腐っても鯛」という言葉の使い方を知らないのだろうと(好意的に)思うことにしました。でも、沈黙を守っている人が、「足を洗った」ことになり(「足を洗う」のは「悪いことから」でしかありえない)、「ただのオジサン」になったことが劣ったことであるかのように書かれていることは読み過ごせませんでした。
戦争に行った人や激しい運動を中心になって担った人が、その後多くを(しばしば全く)語らなくなったり社会的な活動から遠ざかったりすることは珍しくありません。でも、そのことは「ただのオジサン」というような言葉で貶められることではないと思います。むしろ、語ることによって「過去」の自分を慰撫することなく、黙々と生きることで「過去」の重みに耐えていることが少なくないと思います。そのような人の「誠実さ」を信じて、私は黙している人のことを絶対に悪くは言いたくない 1)。
「どんな社会運動も『当事者』より『傍観者』の方が饒舌になります。思い入れを熱く語るのは、当事者になれなかった傍観者、または当事者になりたかった傍観者です。当事者は、思い入れがありすぎて、自分の体験が整理できなくて沈黙しがちです。」 (鴻上尚史「不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか」講談社現代新書2018)
私たちの思考は「ただのオジサン、オバサン」として生きている地平から生まれ、そこで精錬する(言葉によってとは限らない)ことでしか誠実さを担保されないと思います。まったくのただの「オジサン、オバサン」として生きているとすれば、そのことは敬意をもって語られるべきこと以外のなにものでもありません。
医学教育や医療の現場で「患者さんの話を聞く」講義や講演があり、時には模擬患者さんが話を聞かれることもあります。
とはいえ、医療者にとって「当事者の語りは不可侵領域となり、『苦しみの証言者』というポジショナリティは、絶対的な個別性と真理性を帯びるが故に、『信じる』ことを要求しているかのように感じられてしまうこともある」。その語りに対して「医師は首を垂れて耳を傾けるしかなく、それに意見したり検証したりといったことも憚られる」。しかし「どの当事者にとっても、彼らの知っている現実はその『病い』の一部を切り取った『部分的現実』でしかない」(北中淳子「語りに基づく科学」現代思想 特集 精神医療の新時代2016.09 Vol 44-17)のです。
こうして、患者の言葉はしばしば「うざったい」ものにならざるをえません。でも、たいていは1,2回そのような機会を持つことで終わるので、多くの場合「うざったい」と感じるほどにも耳を傾けてもらえません。その間だけ身を低くしていれば、言葉が上を通り過ぎていきます。
当事者の言葉を聞いているだけでは、言葉の奥の思いは見えにくい。患者さんの話を聞いただけで「わかった気」にならないでほしいと私は願っています。
患者さんの話の奥には、言葉にならなかったさまざまな思いがあり、その思いを切り捨てて話すことへの葛藤があります。「それでも言葉を語ろう」と一線を超えるとき、患者さんは大きな「決意」をしています。聞き取るべきは、その「決意」に至った「思い」の方です。
言葉の背後には言葉に納まりきらない・まとまりきらない患者の『悔しい』思いがあり、語ることであらためてそれが蠢めきだします(当事者自身そのことに気づいていないこともあります)。言葉にすればするほど、言葉にならないカオスも大きくなっていることを自覚してしまいます(心は常に言葉からはみ出し、逃れていきます)。患者さんの話は多少なりとも自己肯定的に修飾され、そのとき「負の部分」が意識下に押しやられることでさらに心が傷つくこともあるでしょう。
わざわざ言葉にするほどでもないささやかな心のざわめきなのに一生心に引っかかり続けていること、患者として生きることはそんなざわめきに満ちていること、など語りようもありません 2)。
語っている患者さんの後には言葉を発することなく病院を去った人、声を出さない(出せない)無数の人がいること、あるいは今も黙していている人たちが無数にいることへの逡巡もあるはずです。
患者さんは語ることでそのつど自らの傷にできた痂皮を痛みと共に剥がし、新たな傷を受けていくのです。
こうしたことを感じ取り、「患者さんの気持ちを大切にし、患者さんに寄り添いたい」などと簡単に思わずに、患者と医療者との間にある深淵に立ち竦んでほしいという願いが伝えられなければ、「患者の話を聞く」という授業や講演会はしないほうがよいとさえ私は思っています。そのような思いを伝えなければプロフェッショナル教育とは言えないのです。
その上で、「けれど、真実は当事者の言葉の中にあるのです。重い口を開いて語る当事者の思いが、歴史の闇に光を当てるのです」(鴻上、前掲書) 3) という言葉を噛みしめたい。(2018.11)
1) ちなみに、秋田明大さんのその後の人生は,「まったくのただのオジサン」の人生ではないと思います。私はその道程を表面的にしか知り得ないのですが、その紆余曲折にこそ誠実さを感じました。2008年のインタビューで「死ぬときは、私の人生は全共闘だったといえばいい」と語っているとのことです。
2) 「医者にとても感謝して」いても「治療方針を決断する時の家族みんなのなんとも言えない(医療への)思い」や「医者への複雑な思い」があることを、私は何度か耳にしました。でも、その人たちも具体的な思いについて、はっきりとは語ってくれませんでした。言葉にしきれなかったのかもしれませんが、「医者(他人)には、どうせわからないだろう」という思いからだったのかもしれません。
3) 光が当たるのは闇のごく一部分にすぎないでしょうが、山本義隆さんがそれでも『私の1960年代』(㍿金曜日2015)を書いたことの思いを受け止めたい。この本を読んで、山本さんはずっと秋田明大さんのことを思いながら書いていたのだろうという気がしました。
追記
1968年の11月、私は当時住んでいた市川(教養部がある)からしばしば本郷に通い、東大安田講堂のバリケードの中に入っていた。11月22日の「日大・東大闘争勝利全国学生総決起集会」では2万人をこえる全共闘系学生が東大構内を埋め尽くした。私は一人で16時頃には安田講堂前に来て、続々と集まる全国の大学生たちの多さに驚嘆した。暗くなって集会が始まる直前(19時頃?)、正門の方から大きな拍手が起き、集まっていた学生たちが一斉に道を開けた(それは、まるで映画「十戒」で海の水が引いてできた道のようだった)。その開かれた道を、私たちよりもずっと苛烈な状況の中で闘っている日大全共闘の隊列が「大学解体!闘争勝利!」と叫びながら入ってきた瞬間、一帯は「異様な」高揚感(この言葉には入りきらない雰囲気だったが)に包まれた。その光景は今でもありありと目に浮かび、その高揚感は今でも甦る。そして2019年は、東大・医科歯科大学だけでなく多くの大学が、機動隊の力を使って大学から学生を排除して50年になる。この50年という時間の重みを語ることは今に生きる私たち世代に課せられた最後の使命であると思う、沈黙という語りを含めて。