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No.288 コミュニケーションの生まれるところ

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 「患者は果たして弱者なのだろうか。むしろ患者の方が、病気に向き合うことによって、命の尊さや、人生で何が重要なのかということを医療者より理解しており、限られた時間を懸命に生きる強さを持っているのではないか」というメールをいただきました。ご家族が重い病気をされた経験からの言葉です。「患者、患者家族とも、精神的にサポートを受けることができない。あるいは相談窓口はあっても、落ち込んでいる中、自分からアクセスする必要がある。患者、患者家族は、自ら動くパワーがありません」とも書いておられました。

 患者さんが「強い」のは確かです。強くなければ病と暮らしていくことはできません。けれども、医療者(や患者さんの傍に居る人)にとっては、患者さんの「強さ」はおつきあいを通して感じ取っていくものだと思います。まずは、患者さんは「つらく」「弱い」のだというところからていねいにおつきあいを始めるからこそ、「強さ」に気づいていくのではないでしょうか。質的研究が流行りですが、「あれ、この人、思ったよりずっと強いんだ」というところから展開するプロセスを辿っているものが多いように感じます。
 自分の思い込みで、患者さんを「弱い」立場にずっと留めおくことは、もちろん間違っています。同時に、医療者が先験的に「患者さんは強いものだ」と思ってしまうと、そういう雰囲気がにじみ出て、「つらいと言えない」「弱さを愚痴れない」状況に患者さんを追い込むこともありそうです。
 「『ポジティブ美談』を賛美するの、やめてくれ。『つらいときにつらいといえないことが一番つらい』世界をこれ以上助長しないでくれ」とあるツイッターにありました 1)

 ある病院で講演して数日後、お招き下さった看護師さんからメールをいただきました。
 「私自身も、臨床現場勤務を離れて10年ほどたちます。外科病棟に主任として勤務しているときに、乳がん末期で不安が強く、検温などで訪室した看護師をその場に長く拘束してしまうような患者さんがいました。週末の夜、比較的落ち着いているとき、時間ができたので、担当看護師ではなかったのですが、何気なく訪室したことがありました。(なぜそのときそう考えたのかは、自分でもわかりませんが・・・) 患者さんも担当でないことは承知していたので、『どうしたの?』と逆に尋ねられたことを覚えています。そのとき、『少し時間ができたから、○○さんと話そうと思って・・・』と言うと、とても喜んでもらえた記憶があります。去り際に、『何でもないときに来てくれたことが、本当にうれしかった』とも話してくれました。この患者さんからの言葉は、10年たった今でも私の心の中に強く刻まれています。先生のお話を聴き、そのことをふと思い出しました。」
 ここでは、患者さんが「強いか弱いか」はもうどちらでもよさそうです。
 このようにして生まれたケアこそがコミュニケーションです。このようなエピソードはきっとどの医療者も経験しているはずですが、教育で「伝える」のは容易ではありません。「なぜそうしたのか」もわからない、「ふと思い出す」ような経験として、大切に心の奥に秘められているものなのですから(ほんとうは、きっと折にふれて思い出しておられることでしょう)。 (2017.12)

1) 「私はこのささくれが痛い」と感じることを、表明することを、ためらわないでほしい。「そんなささくれ、私だったら痛くない」と言ってくる人を無視する勇気を持ってほしい。「なかったことにされた感情」は、怒りとなって積もるから。積もった怒りは、自分や、自分より弱い者に、いつか向かうから。
 ワタシは、人のすることで一番罪深いのは、「誰かの感情をなかったことにする」ことだと思う。小さなささくれだって、痛いものは痛い。「そんなもん、自分だったら痛くない」と勝手に断じる、罪深さ。「そのささくれ」が痛いかどうかは、「そのささくれ」を持ってる人が決めることなんだよ。(別のツイッターから)

コミュニケーションのススメ 日下 隼人 コラム

● 本コラムの内容は、著者 日下 隼人の個人的な意見であり、マイインフォームド・コンセントの法人としての考え、および活動に参加しておられる模擬患者さんたちのお考えとは関係ありません。

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