No.268 「さわる」「ふれる」
コラム目次へ 医療面接には会話分析の専門家など言語学系の人も関心を持っておられるようです。ただ、私たちのふだんの暮らしの中での日本語が含意するものは曖昧で多義的ですし、まして病気の人の話す言葉は論理的なものではないし、心を反映しているとはかぎりません。「言葉にならない」思いを抱えながらなんとか絞り出された言葉には、分析となじまない部分があるという気がします。そして、そのなじまないところに人は息づき、そこでしか生まれないケアがあると思います。語りたがらない患者さんは分析者の視野から抜け落ちてしまい、その思いは宙に漂ってしまいます。仏教では「最も愚かなコミュニケーションは言葉である」と言うそうですし、コミュニケーションの裏をかくのも言葉です。自分の言葉が分析されていると感じたら、それだけで不愉快になってしまう人もいるかもしれません。「ちゃんと言葉にして語り合わなければ、通じるものも通じない」ということも確かなのですが。
会話分析にしてもナラティブにしても、詳細に言語化し分析する隙間からケアの手触りがこぼれおちていきます。ケアとは「手触り」なのです。
人間の五感の中で視覚と聴覚とは高級感覚とされますが、それは「対象から距離を置いている」感覚でもあります(鷲田清一「メルロ=ポンティ」)。視覚は、見る者-見られる者の接触不可能性を基礎にしています。低級感覚とされる触覚・味覚・嗅覚のほうが相手との距離は近く、それだけにそこで感じられる内容は主観的で曖昧なものですが、逆に強く私たちの心を支えています。昨年「神の舌をもつ男」というテレビドラマがありましたが、味覚は最も基礎に位置する感覚だと言われます。とはいえ、人間を相手にする場合、味覚と嗅覚は近づきすぎだという気がします(少し変態っぽい?)。その意味で、触覚は適度な距離であり、特別な感覚です 1)。
触覚の根源性について、アリストテレスは「感覚のうち第一のものとしてすべての動物にそなわる」ものであり「対象そのものにじかに接触することで成り立つ」と書いています(「心とは何か」講談社学術文庫)。
D.J.リンデンは「触れることの科学」(河出書房新社 岩坂彰訳 2016)で、比喩としての触覚的表現についての例を挙げています。
Touched(触られた) 感動した 傷ついた
Sticky(べとべとした) 厄介な
Coarse(ざらざら きめの粗い) いい加減な きつい
Hairy(毛深い) 難しい
Hard(硬い) 手ごわい
Smooth(滑らかな) 円滑な
「頭が固い・柔らかい」「心が温かい・冷たい」 2)。心も触覚でたとえられます。(「考えが甘い・渋い」のように味覚が用いられることもありますが。)
もし五感のなかで一つだけしかケアに使えないとしたら、それは触覚=相手に「ふれる」ということではないでしょうか。聴くことがだいじと言っても、ただ聴かれるだけではケアしてもらっているとは思いにくいでしょう。そばで黙って手を握り続けていてくれる人、ずっと体をさすってくれる人、手をあて続けてくれる人、そのような営為がケアです。(先天性知覚障害の人が居られますが、その人にはケアができないと言っているわけではありません。)
「ふれる」というのはお互いに「ふれ合う」ことです。「ふれる」は「さわる」とは違います。「さわる」にはお互いの関係がなく、「さわるもの」(上位)と「さわられるもの」(下位)との関係になります 3)。
診察の時、医者は機械的に手順通りに淡々と患者さんをさわります。でも、ケアするものとして患者さんに「ふれよう」とする時には、「おそるおそる」「そっと」気遣いながら手を差し伸べていきます 4)。言語学者の滝浦眞人は「相手に触れることができるのは上位の者である」と言っていますが、これはきっと「さわる」のことです。相手に「おそるおそる触れる」ということは、下位のポジションにある者にしかできないことです(対等な関係でも、触れるために手を差し伸べる瞬間には下位のポジションになっているはずです)。
そして、「子どもや恋人と手をつないでいるとき、感じるのは相手の手ではなくて、その存在全体です。相手の気持ちがどこに向いているのか、どんな気分なのか、具体的に感じることができるかもしれません。いや、・・・・相手と自分が気の流れを通して一つになる」(伊藤亜紗「目の見えない人は世界をどう見ているのか」光文社新書2015)のです。そのように触れた瞬間から、私たちは、相手を感じ、あらたな知覚・思考が生まれます 5)。
患者さんに「ふれる」とき、私たちは患者さんの何かを感じます。そのとき患者さんについての知見が一つ増えるということではなく、患者さんについての知見も自分の人生についての思いも、その瞬間に全融解して再構成されるような(昆虫のさなぎの中で生じているような)体験なのではないでしょうか。患者さんの中でも同様の現象が起きているはずです。人間同士のふれ合いです。ふれ合うことを通して、患者さんの心が動き、初めて自分の思いを口に出すこともあるでしょう。だから、患者さんをさわっている限り、医者の世界は看護師や介護士に開けている世界とは断絶しています。
お互いに日々「生まれ変わる」のだとしたら、患者さんの気持ちが「わかる」ということは辿りつかない目標なのでしょう(辿りつけないからこその目標です)。大切なのは「わかる」ことではありません。患者さんのことが「わかった」と思った瞬間、その「光が当たった」ところ以外の部分は闇に閉ざされます。周囲が闇に閉ざされたとき、「光が当たった」ところも実は見えなくなっています。
相手の気持ちはわからないけれど、それぞれが再生するのだとしたらそのところで連帯が生まれます。
医療面接演習について「身体診察にも対応する模擬患者の方が良い」という言葉をはじめて聞いた時、なにかいたたまれないような感じになりました(これまでもNo.169、No.175,No.249,No.253などに書いてきました)。それは、それまで面識もない学生たちとのせいぜい15分程度の面接では、患者役は「さわられる」だけだということを直感的に感じたゆえの「違和感」だったと思います。学生たちに「ふれ合う」ことを求めるのは酷です。臨床現場の経験を積んで(時間の長さのことではありません)、医者のしていることは看護師や介護士の仕事に及びもつかないということを痛切に感じた者にしか「ふれる」ことはできないのです。それなのに、ここで「さわる」経験だけを積むことは、患者を自分が扱うモノとして見下ろしてしまう感覚だけが膨らむことになりかねません。
教育者は「ふれる」ことの意味を丁寧に伝えなければならないと思いますが、そのためにはまず医者の世界で「ふれる」ことについての理解を深めることが先決です。医学教育では「ふれる」ことの意味が教えられていませんし(きっと教員がそのことの意味を重視していない)、そのような教育は模擬患者参加による演習の範囲を超えていると思います 6)。(2017.03)
1) 坂部恵は、五感の中で「ふれる」と他の感覚(見る、聞く、嗅ぐ、味わう)の違いについて次のような点を挙げています。
① 「ふれる」以外の四感は「を」(「音を聞く」のように)が続くが、「ふれる」は「に」が続く。つまり、「ふれる」は相手を対象化しえず、「ふれるもの」と「ふれられるもの」との間には相互嵌入、転位、交叉が生まれる。
② 他の四感では「分ける」という言葉を付けることが可能である。聞き分けるには、しばしば支配-被支配の関係が含意される。
③ 見る、聞く、では「知る」という言葉を付けることが可能である。知るものと知られるものとの間には支配的関係がある。
(「『ふれる』ことの哲学」(「ふれる」ことについてのノート)岩波書店1983)
2) 「心の温かさは手の温かさを通して伝わる(伝える)」と言ったのは、中井久夫だったでしょうか。社会心理学の実験でも、ごく短い時間、手の皮膚に身体的な温かさを感じた経験が、実際に対人的な温かさの印象を喚起したといいます。
3) 「ふれるということはいうまでもなく、単にさわることではない。一言でいえば、ふれるという体験にある相互嵌入の契機、ふれることはただちにふれ合うことに通じるという相互性の契機、あるいはまたふれるということが、いわば自己を超えてあふれ出て、他者のいのちにふれ合い、参入するという契機が、さわるという場合には抜け落ちて、ここでは内-外、自-他、受動-能動、一言でいってさわるものとさわられるものの区別がはっきりしてくるのである。」坂部 前掲書
4) アイヌ語の「こんにちは」にあたる「イランカラプテ」は、「あなたの心にそっと触れさせていただきます」という意味なのだそうです。瀬川拓郎「アイヌ学入門」講談社現代新書2015
5) M.モンテッソーリも、「手による仕事は知性だけでなく精神性や感情というあらゆる人間性に従って働く」と述べています(「子どもの心―吸収する心」国土社)。この考えはミラーニューロンにも通じているのかもしれません。
6) ある病院の指導医養成講習会での雑談で、「最近の若い医者は患者さんに触りもしない」という話を聴きました。事態はもっと深刻なのかもしれません。