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No.246 「わかりました」

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 話している途中なのに「はい、わかりました」と相手から言われると、もう話を続けることはできなくなります。それは患者に限ったことではありません。
 「はい、わかりました」は、了解(了解というのも上からの言葉ですが)の言葉や共感の言葉であるよりは、「これ以上、話さないでね」という「断ち切り」の言葉です。「おだいじに」「OKです」「おしまいです」「いいですよ」など、たくさんの言葉が会話を断ち切ります。もちろん言葉だけの問題ではなくて、言い方=言葉の雰囲気にもよるのですが、多くの場合これらの言葉は断ち切る雰囲気とともに発せられていますし、言うほうにそのつもりがなくとも言われたほうは「断ち切られた」と感じてしまいがちです。特に、「弱い」立場の側はそう感じます。「弱い」立場にいるのは患者さんだけではありません。患者のクレームに答えていたら、患者から「はい、はい、わかりました、わかりました」と言われてしまった医療者も同じです。
 余談になりますが、外来診察の場面でしばしば医者は「いいですよ」と言うのですが、これは多分に「この部屋から出て行っていいですよ」「もうここに居なくていいですよ」というニュアンスの言葉です。このような上からの承認の言葉を医者はいつ身に付けてしまうのだろうということが、私は医者になった時からずっと気にかかっています。

 話を断ち切られることは、誰でも不快です。医者が好意的に「わかりました」と言っているつもりでも、その言葉が繰り返されることによる不快感が積み重なると医者への不信感が生まれてしまいます。コミュニケーションの神も細部に宿るということこそ私たちは伝えなければならないのだと思います。
 でも、「はい、わかりました」という言葉が不快感を生み出すのは、それだけではないような気がします。他人から「あなたのことがわかる」と言われること自体が、言われた人にとっては不快なことではないでしょうか。もちろん、自分の思いについて「わかる、わかりますよ」と言ってくれる人がいるのは素直にうれしい。思いが重いときほど、そうです。「わかる」と言ってもらってありがたい感謝の気持ちが湧いてきます。
 しかし同時に、「わかられるはずがない」という思いも湧き上がります。「わかりました」という言葉への違和感・断絶は、そこにあるという気がします。外来で数分間話をしただけなのに「わかりました」と言われれば鼻白む思いがするのは当然ですが、どんなに長くつきあってきた人であっても自分の本当のところは「そうそう、わかられるはずがない」と思います。親友でも仲良く長い年月を過ごした夫婦でも、そうです。「わかってほしい」と「わかられてたまるか」の狭間で人の思いは揺れ動きます。 内田樹さんは「『あなたの言うことはよくわかった』と宣言したときにコミュニケーションは断絶する。それは恋愛の場面で典型的に示される」と言います(「ひとりでは生きられないのも芸のうち」文藝春秋2008)「まだよくわからない」=「あなたのことをもっと知りたい」と思うから、もっとつきあいたいと思うのです。でも、「あなたは私のことが分かっていないのよ」という言葉は別れの時にもとても有効なものですから、「わかる」という言葉は厄介です。

 患者の「あなたには私の“痛み”(気持ち)はわからないよ」という言葉に、医療者はひるんでしまいます。「なんとかわからなくては」と強迫的に思ってしまいがちです。看護の世界でよく言われる「患者理解」という言葉には、そのような強迫的な思いに突き動かされている感じがつきまといます。
 しかし「あなたのことがわかりたい」と迫ってくる医療者は怖い。「あなたのことが分かった気がします」と言われたら不愉快で、そのあと口を閉ざしたくなる。「わかった」と思う医療者の気持ちは態度や表情に出て、そのことだけでも心がざわめく。他人に自分の気持ちが「わかられてしまった」と感じたら、自分が簒奪されたような気がしする。なにか、いたたまれない。「医者が分かってくれない」と言っている人も、ほんとうに全部わかられてしまったら(そんなことはありえないが)もっと耐えられない。「見える、見える」という透明ボールペンのような人生を、人は生きているわけではありません。
 「わかる」「わかった」人は、「わかられる」「わかってもらう」人より上位の立場にあります。「わかる」ということは、相手の人の心の中に入り込むことです。だから、「わかる」ということは「暴力的」なことなのです。「わかろう」とのぞき込むことにも、「わかった」と意味付けすることにも、暴力的な要素が入り込みます。「患者理解」という言葉は、そのような危うさの上にあるのだということは、私たちの視野から外れがちです。

 「あなたには、わからない」と言うことで、かろうじて支えられる自己があると思います。だから、「あなたには私の“痛み”(気持ち)はわからないよ」という言葉は、断ち切る言葉ではありませんし、脅迫的な言葉でもないのです1)。「あなたには、わからない」という患者の言葉には、期待も込められているのだと思います。それまでのつきあいになにがしかの信頼を持つことができ、その医療者が少し無理をしてでもそばにいて、自分のことをわかろうとしてくれていると感じられたからこそ、このような言葉を口に出すことがあるでしょう。完全な絶縁通告の場合もありえますが、絶望的な思いで言う場合ですら、そこには何らかの回路が求められているはずです。試されているとも言えますが、それは切なる思いから相手に向かって跳躍し、それを受け止めてくれるか否かを確認するような「試し」です。「わかってほしい」というよりも「わからなくとも逃げないでいてほしい」という思いです。
 だから、ぐらつきながらも逃げないこと。「理解」しようと突き進むことよりも、「知りたいな」「教えてください」という姿勢にとどまることはケアなのです2)。そのとき、迷いながら患者さんの傍にいる医療者は、患者さんからケアされてもいるはずです。 「あなたには、わからない」という言葉に「ひるむ」医療者の顔を見ることで、患者さん少しほっとしているのかもしれません。(2016.07)

参考:佐藤登美・西村ユミ「“生きるからだ”に向き合う」へるす出版2014
1) 医療者も同じ思いです。医療者の認知構造は、患者にはわかりません。だから、医療者の思考はわかってもらえません。「あなたには、私の気持ちがわからっていない」と患者に言うわけにはいかないだけ、医療者のほうがしんどいところもあります。そこにこそ私たちを結びつける共通項があるのですが、お互いに相手のことは見え難いものです。
 「他者の重みをしっかりとらえること・・・・・。他者を理解すること、他者によって理解されることは、本来絶望的に困難であることをしっかり認識すべきなのである。」(中島義道「〈対話〉のない社会」PHP1997)

2) 「理解」はついに「信」に及ばない。「信」ぬきで理解しようとすると、必ず関係を損ない、相手を破壊する。・・・「理解しようする努力」を彼らは「信なき理解」と取ることが多い。(中井久夫「看護のための精神医学」医学書院2004)

コミュニケーションのススメ 日下 隼人 コラム

● 本コラムの内容は、著者 日下 隼人の個人的な意見であり、マイインフォームド・コンセントの法人としての考え、および活動に参加しておられる模擬患者さんたちのお考えとは関係ありません。

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