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No.338 深度が違う

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 病院の平均在院日数が、大学でも10日に近づきつつあります。数字自体は定められた計算式によって算出されるものですからもっと長く入院する人もいるでしょうが、大きな病院・急性期病院に患者さんが入院していられる日数がどんどん短くなっているのは確かです。入院期間が短いのですから、「入院中、同じ看護師には一回しか会わなかった」「看護師長の顔は見なかった」という患者さんの声を聴くことも珍しくなくなりました。
 医療者にしても、少し患者さんと話せるようになるころには、患者さんが他の病院に転院してしまいます。その患者さんが転院してきた病院のほうでは、これまでどのような医療者とどのような話をしてきたのかがよくわからないまま、病気の過程にある患者さんと話さなければならなくなります。
 このような状況でACP(アドバンス・ケア・プラニング)をまとめることはできるでしょうか。入院当初の頭が混乱している(異様な「興奮」状態の)中で、未来のことなど見通せず、医療のこともよくわからないまま(これから起きる現実のことは、もともと予測不能ですし、説明されてもどんなことが起きるのか想像つきません)、人柄がわからない医療者と話しあわなければなりません。病初時の混乱の中で書いたものがいつまでもつきまといそれ以降の人生を左右します。
 患者さんの思いは日々変わります。病状の変化によっても、周囲の人の変化によっても変わります。担当医が複数いればそのそれぞれと話すたびに思いは動揺します。病院が変わるときにはもちろん動揺します。医療者と信頼関係が生まれていなければ、その思いの揺れ動きを医療者に言うことはなかなかできません。短い入院期間では信頼関係は生まれにくいでしょう。「希望は何度でも変えることができます」と言われても、毎日のように変えても良い顔をしてくれる医療者は稀ですし、そう思ったら「変えたい」という言葉を控えます。控えているうちに、「その時」が来てしまうかもしれません。
 火急の用は、ACPを患者のものの位置に「押しとどめる」ことです。さもなければ、新たな患者管理の道具が増えてしまうだけです。
 「限りない延命医療から、自然な、平穏な死という方向」(広井良典)という言葉について、言っている人自身がその底に流れている「悪意」に気づいていなさそうなことが怖い。この言葉には片方を悪とし他方を善とする同化圧力があからさまに語られていて、「さまざまな選択肢があり、どの選択肢を選んでもその人らしく生きられるように医療は支援する」という雰囲気は感じられません。「病院より自宅のほうが良いよね、ね、ね」という棄民 1) を覆い隠す言葉も同じです。社会資本・経済資本・文化資本のそろった人ならば、自分の望む医療を「選び」、医療者に求めることができるでしょう。それ以外の人は、ACPの名のもとに「身の丈に合った」医療をうけるように追い込まれ、そして「身の丈に合った」死に方が求められます 2)
 まずは、主導権を医療者(とりわけ医者)の手から解き放つこと。そのうえで、どの選択肢にも優劣をつけず、患者の希望 3) を尊重し(希望を誘導、ないし強制しない 4))、医療者は患者の意思の尊重のためにできるだけのことをすること(医療者に求める権利を保障すること)。患者の思いの揺れにどこまでも付き合うこと。患者さんの暮らしと乖離しないこと。
 「おいしさと人の暮らしが乖離したらあきません。・・・人と人との良い関係性からできたもんは『おいしい』の深度が違うんですよ」(土井善晴「玉子料理の京らしさ」東海道新幹線車内誌『ひととき』2019.08) 「人と人との良い関係性」なしにACPはあり得ないと思います。(2019.12)

1) 天田城介は「『穏やかな死』のための『自己決定』による死への放擲」を指摘している(「死に放擲される老い」医学哲学医学倫理25巻2007)。ACPは、結局のところ医療費を減らしたいというホンネの上で、老いを死に放擲しているのではないだろうか。ACPを語る枕詞に「超高齢化社会」という言葉が用いられるが、本来ならば高齢化社会とは関係ないことのはずである。批判を受けた厚労省の「人生会議」広報ポスターにはそのホンネが表れている。「人生会議」は死に方会議ではないはずだし、生き方会議をするもしないも個人の勝手、それを国家や病院から迫られること自体にこの社会の危うさが表れていると思う。

2) 「現状は『過剰医療』といったある種の『贅沢』なものを許す雰囲気にあるとはとても言えない。にもかかわらず、『過剰』を言い立て、さらには治療しないほうが長命になる等々と語るのは、現状の雰囲気を形成している背景を探る努力を怠っている点で精神的に怠惰であり、特定の上意下達的な方向に誘導しようとしている点で倫理的に許されないのではなかろうか。」香川知晶「終末期医療のイメージ」医学哲学医学倫理36 2018

3) ACPに限らず、患者さんの言葉・患者さんの語りを、私たちはどう受け止めればよいのだろうか。そこには必ず「社会的」に迫られた思考があり(「社会的洗脳」)、自我防衛や周囲(家族や医療者)への気遣いがあるのだから、その言葉は本心ではないはずだと受け止めるべきなのだろうか(「蒙昧」を解明し、説くべきなのだろうか)。どのような状況の下であれ、患者さんの言葉は、少なくともその時の本心(の一部)であるのだから、そのまま受け止めるべきなのだろうか(拝跪すべきなのだろうか)。そもそも「患者さんの語り」としてその人の言葉を特定の(医療現場なら「患者」という)属性に閉じ込めて聞いてしまうことは「暴力」ではないのか。社会学者の岸政彦は、この問題についてデイヴッドソンの「寛容の原則」を援用しながら論を展開している(「鉤括弧を外すこと」現代思想43-11『いまなぜプラグマティズムか』)。しかし、実際に患者さんとの相互の関わり合いが進行する医療現場では、ライフヒストリーを研究する社会学以上にいくつもの課題があると思う。

4) 在宅医療・看護の担当者と患者との間にある程度の信頼関係が生まれているときにこそ、誘導が生じやすい(医療者の意向に沿おうとする)というアンビバレントな状況があることにも目を配りたい。


日下 隼人

コミュニケーションのススメ 日下 隼人 コラム

● 本コラムの内容は、著者 日下 隼人の個人的な意見であり、マイインフォームド・コンセントの法人としての考え、および活動に参加しておられる模擬患者さんたちのお考えとは関係ありません。

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