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No.353 「これまでの人生で一番強い痛み」?

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 ある病院の救急外来の予診用紙に「これまでの人生で一番強い痛みを10とすると、今の痛みはどれくらいですか」という質問項目があるのを見て、「今でもこのようなことを尋ねているのか」と少し驚きました。どうりで、研修医オリエンテーションの面接演習でこの質問をする人がいるわけです。
 でも、ある病気の痛みと別の病気の痛みとを同列に並べて比較することはできるでしょうか。病気ごとに、その都度ごとに、痛みのベクトルは違います。陣痛の痛みと腸閉塞の痛みを同列に比較することなどできません。痛みは単独で存在するものではなく、その時点でのさまざまな思いや事情の絡み合うところに存在するのですから、たとえ同じ病気の痛みであってもベクトルは異なります。記憶は変容しますから、昔の痛みと今の痛みとを比較することも困難です。痛くて苦しんでいる最中に、昔の痛みを思い出すように求められても、うまく言えるはずもありません。
 「意識のいろいろな状態、感覚とか、感情とか、情念とか、努力とか、そういうものは、増えたり減ったりできるものだと、普通は思われている。ある者たちは、ひとつの感覚が、同じ性質の別の感覚より二倍、三倍、四倍強いと確言さえしている」(H.ベルクソン「意識の直接予見に関する試論」前田英樹訳)。悲しみでも痛みでも、その一つ一つは比較できない全く別のものです。「親を失った悲しみを10とすると、配偶者を失った今の悲しみはどれくらいですか」「配偶者を失った直後の悲しみを10とすると、今その悲しみはどれくらいですか」などと尋ねることができるはずもありません。痛みでも同じです。
 痛みを10段階に分けることは、痛みを平板化・一次元化して見ることです。痛みの平板化は「病い」を平板化して見ることによって可能になります。可視化というのは、そもそも平板化を免れません 1)。病いを平板化して見ることは患者という人間を平板化して見ていくことになり、患者という人間を平板化して見ていくことと医療者の平板化とは表裏一体のものとして進行します。「AIが進むと『問診』も『身体診察』も機械がしてくれるから、OSCEの模擬患者は要らなくなる」という意味の2019年の医学教育学会での発言(No.332で書きました)、ある大学の学長の「医者には言えないことも,AIになら患者さんはいろいろ言ってくれるかもしれない」という言葉(No.350で書きました)は、患者・医療者・医学生の平板化が進んでいることの表われです。AI以上のことを期待されない医学生は、どんな医者になるのでしょう。「AIに対してなら言えることを、言ってもらえない医師」を育てているかもしれないという自覚があるのだとしたら、目指すべきは「どんなことでも言ってもらえる」医師の育成であるはずです。
 ちなみに、「これまでの人生で一番強い痛みを10とすると、今の痛みはどれくらいか」という問いには、どのような時でも「今回の痛みが一番強い」と言うのが「正解」だと思います。(2020.09)

1) 強い痛みで来院した患者さんに鎮痛処置を行って、「最初の痛みを10とすると、今はどれくらいですか」という質問なら少しは意味があると思いますが、それでも4なのか5なのか6なのか、悩んでしまいます。「だいぶ楽になりました。座っていられるようになりました」で良いはずです。質を抜きにした無理な「数値化」からは、かえって不正確な情報しか得られないのではないでしょうか。医療倫理についての議論もコミュニケーションについての論文もしばしばこうした陥穽に陥っているという気がします。


日下 隼人

コミュニケーションのススメ 日下 隼人 コラム

● 本コラムの内容は、著者 日下 隼人の個人的な意見であり、マイインフォームド・コンセントの法人としての考え、および活動に参加しておられる模擬患者さんたちのお考えとは関係ありません。

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