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No.416 自己決定(2) 「みんなで話し合って」?

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 ACPでの自己決定では、「関係的自律」が、きっと意図的に無視されています。そのことを患者さんは誰もが感じていて、それでも「我慢して」医療者とつきあってくれているのではないでしょうか。
 「自立」「自律」「自己決定」などという言葉は残酷なものなのです。人間だれしも自立/自律などできるはずがないのに、こうした言葉の下に「選択」の責任が患者一人に負わせられます(新自由主義です)。「賢い患者になる」だけでは、対応しきれないことです(「賢い患者になれ」と言われれば、それ自体ある種の「抑圧」です)。

 「みんなで話し合って」「患者・家族・医療者がよく話し合って」「家族に囲まれて、心の和む環境で」など言う言葉がACPをめぐって「氾濫」していること自体がおかしくはないでしょうか。
 どうして「家族」がそんなに良好な場、穏やかな人間関係の場であると「信じられる」のでしょう(信じているふりをしているのだろう)。
 「家族と一緒が一番幸せ」という人が居ることは確かでしょうが、それでも、家族はさまざまの確執/権力関係 1) に満ちていて、そしてそれぞれの思惑があふれるドロドロした世界です。
 「家族が一番」と思いたい人はいっぱいいるかもしれません(例の宗教団体もそうです)。そのように見たい人には家族が「美しきもの」と見えるかもしれませんし、そのような部分しか見ませんし、その「期待値」から外れた家族を非難することになります。
 でも、実際には本人が「良い家族だ」という場合でさえも、差し引き少しだけプラスだというところではないでしょうか 2)

 「人生会議」という名の「死に方会議」で、「みんなで」「何度も」自分の死について話し合うということは、「圧力」の要素の方がずっと強い。患者は家族や医療者に気づかって選択をしていくしかありません。ちょっと“わがまま”を言った時に、家族や医療者が見せる微細な表情の変化を、患者は読み取らなければならなりません。露骨に言われてしまうことだって少なくありません。自分の意志が通るとき、患者はみんなの「寛容さ」のおかげで許してもらっているのです。
 「何度もの話し合い」は、みんなが「承認」する結論に達するまで繰り返されかねません。「意向は変わりませんか」と何度も尋ねられることだって鬱陶しいし、下心も感じられます。いつでも「気が変わった」と言える環境/人間関係があれば、それで十分なのに。

 感覚のレベルを含めて人間の認識そのものが、共同体/家族の制約の下に服しています。でも、その枠に入りきらない思い、その枠からずれる思いが必ずあるはずです。言葉には表せないかもしれませんし、言葉にできたとしても通常の意味とは違うかもしれません。それでも、そこにこそ、その人の自立/自律があるのです。その言葉を聞き漏らさない、その表情を見逃さないことこそ私たち医療者に求められているはずです 3)。それはケアには欠かせないことです。

1) 信田さよ子『家族と国家は共謀する サバイバルからレジスタンスへ 』角川新書 2021
 私の若いころには「家族帝国主義」という言葉が流行りました。

2) もちろん、家族や親しい人は「病気と闘う/共に暮らしていく」ためのチームの主要メンバーですし、同時に、家族や親しい人は私たちのケアが欠かせない人でもあります。この二重性は、いくら重視してもしすぎることはありません。

3) 「制度化されたシステムの中で、我々はいつのまにか自分の主体というものを構成されていくわけです。そのままであるならば、人間は文字通り社会システムの機能的因子そのものということにとどまってしまう。このようなシステム統合に対しては、システムの内部に統合され、システムの機能的因子として適合するような主体の意識に対しては、おそらく、身体のレヴェルに発するところの、それ故に初発には無意識的な感覚的・非合理的な表現形態をとるところの反抗が噴出してくるでしょう。こうした身体的レヴェルに発する無意識的な反抗が一定の社会的レヴェルに達したとき、あらためて理性の働きを介して新たな主体の在り方が必要なものとして要請され、模索されていくことになる。」(山之内靖『総力戦体制』ちくま学芸文庫2015)


日下 隼人

コミュニケーションのススメ 日下 隼人 コラム

● 本コラムの内容は、著者 日下 隼人の個人的な意見であり、マイインフォームド・コンセントの法人としての考え、および活動に参加しておられる模擬患者さんたちのお考えとは関係ありません。

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