メインビジュアル

No.235 深い溝(2)

コラム目次へ

 臨床医は、臨床経験を積めば積むほど傷ついていきます。それが臨床の現場の「重さ」です。
 多くの医師は、たくさんの人の「死」「辛い人生」「悲惨な場面」に出会い、直接関与してきています。「良い医療」ができたと自他ともに感じられる経験がないわけではありませんが、それは決して多いことではなく、むしろ内心忸怩たる思いで診療を終え、苦い思い出が残ってしまうことのほうがずっと多いのです。それは「反省して次回に生かそう」と言えるほど軽い経験ではありませんし、医師の心から完全に消去されることはありえません(意識され続ける場合も、意識から押し出される場合もあります)。
 治療者は治療者である限り、つねに自分が「生き残ってしまう」のであり、その「負い目」を背負っていきます(これも意識下のことです)。
 医師は、患者さんの様々な顔を見てしまっています。人間の醜さ、情けなさを、直接見せつけられることも珍しいことではありません。医療の場は、人間への信頼だけでなく不信をも学ぶ場でもあります。
 にもかかわらずというより、だからこそ医師になって短い時間のうちに、人の「生き死に」をクールに(冷たく)見てしまうようになります。そうしなければ、医師として生きていられません。でも、人の生死や病のつらさに鈍感になってしまい、機械的に「雑な」接し方をするようになってしまっている自分に気づいてはいます。それが医師を志した初心からずいぶん外れてしまっていることも分かっていますし、その「負い目」を見ないようにしていることも感づいています。医師は例外なく、出会った患者さんの数だけ、心には傷がついています。全然そんなふうに見えない人はいますが、それはそんなふうに見せないように努力しているか、自分でもそのことに気づかないように自我防衛しているかなのです。
 無数の傷を抱えている自分の思いをうまくまとめる言葉を、人は持ち合わせていません(もちろん、自覚もしていないし、それゆえ言葉にしようとも思っても居ない人もいます)。いくらかでも言葉にすることができても、自分の鬱々とした思いが他人にうまく伝わるとも思えません。もしその思いがうまく伝わることがあるとしても、そのような思いを他人に伝えてしまうことが「善いこと」だとも思えません。その重さに「耐えている」(そのように意識しているわけではありません)がゆえに言葉を控える(言葉が出てこない)姿が、患者さんには医師の「鈍感さ」に見え、その「鈍感さ」に患者さんがイライラしてしまうことがあると思います。そのイライラは医師の傷に塩を塗るので、医師もイライラすることになり、医師と患者との間の溝はさらに深くなります。
 自分の思いを「部外者」に押しつけないのはプロの矜持だと言いたいところですが、医師は自分の思いをまとめることにも伝えることにも絶望しているのかもしれません。だから、「部外者」からいろいろな言葉をかけられてもきちんと言葉を返すことはできませんし、「非難」と聞こえる言葉に対しては感情的に反発するしかなくなります。
 医療についての社会学や哲学・倫理学など多岐にわたる学問があります(学会や研究会もあります)が、研究している人の多くは医師ではありません。医師でない人の言葉は、臨床医の耳には入りにくいのです。現場を知らない「タテマエ」「きれいごと」を勝手に言っていると感じてしまいます。医療現場に直接関わらないことで俯瞰して見ることができ、そうすることではじめてわかることがあることも、社会学や心理学のような別の切り口(=医療者とは異なる視座)からしか見えないことがあることも理屈では分かっています。でも、そのような視点からいろいろ考えとしまうと面倒くさいことになることも察しているので、「回避」しようとします。無意識の忌避感が生まれます。「なんて面倒なことを言う人がいるのだろう」「屈折した考えをする人がいるものだ」などと言うとしても、それは鈍感や無知ゆえではないのです。
 医師であっても、哲学や社会学について論じる人や医学教育を専門にしている人のことは、通常の臨床医の世界からは多少なりとも「辺境の」世界に居る人と受け止められていますから(例外はありますが、「当たらずといえども遠からず」です)、やはりその言葉は臨床医の心には入りにくくなります。昔は臨床をしていたかもしれないけれど、政策的に強く規定されている今日の現場の実情や著しく専門分化した現在の医療の姿を知らない人が現実離れしたことを言っていると感じます。
 医療倫理など、グダグダとゴタクを並べて、結局何を言っているのかよくわからないと思ってしまいます(医師は明快な答えが好きですが、明快な答えを出すことは倫理的態度ではありませんから)。医師が毎日している仕事をネタに、関わっていない人がいろいろ話したり研究したり、医療へのパラサイトのようではないかと医師は思います。でも、現場でどうすればよいかの判断が難しく、責任を取りたくない時になると、医師は倫理委員会などに判断を委ねてしまうのですから、医師が倫理を語る人のパラサイトになっているとも言えます。そして、倫理委員会などで下される倫理判断の多くは、医療現場で行われつつある事実の追認・補完になりがちで、つまり、そこで共犯関係が生まれるという構造になっています。医療倫理の学会が「生権力」の片棒を担いでいるのではないかと思わされることも少なくありません。医師が倫理的言説に虚心に耳を傾けることは難しいことであると同時に、耳を傾けることが「危険」を大きくしているという側面があります。医師の論理を進められる時だけ倫理に耳を傾け、倫理を語る人を称揚しているというべきでしょうか。
 患者の言葉や模擬患者の言葉を聞いても、医療の世界の混沌も医師の複雑な思いも知らない人が言っていると思ってしまうので、やはり臨床医の心には入りにくいのです。「人の気も知らないで。しょせん『受益者』は勝手なことしか言わない」と感じます。こうした感じは多くの場合意識下のものですから、当の医師にはなんとはなしの不快感や違和感となるだけですが、それだけにこの感覚は強く心をとらえてしまいます。模擬患者演習では「現場は違うんだ」「これは現実とは違う『絵空事』なんだ」という思いが「防衛」として働き、ますます耳をかさなくなります(その場では聞いているふうを装いますが)。
 どうしても臨床医は、「事件は現場で起きているんだ」と思い、「臨床の現場のつらさ・大変さも知らないで(たいして関わっていないのに)」と思います。「医師は医師の言うことにしか耳を貸さない」と言われるのには、このような事情があります。部外者の言葉に耳を傾けるのは、「そんな人の言うことも聞いてあげよう」「一応耳を貸すよ」という「上位者の余裕」があるときだけです。そして「上位者」の位置を保証するのも、自分こそが日々臨床の現場にいる主役だという自覚です。
 医師には、医師以外の人にはきっとわかってもらえない「つらさ」「きつさ」があるのは事実です。でも、患者さんも「事件は自分に起きているんだ」と思いますし、「病の当事者の思いも知らないで」と思っています。患者さんには他の人にわかってもらえない「つらさ」「きつさ」があります。患者と医療者との間にある深い溝に橋を架けることができるとしたら、お互いがこのような思いを抱えて生きているというところしかないのではないでしょうか。けれども、その作業に医師がとりかかれるようになるためには、意識下に追いやってきた自らの「傷」を意識化し、正視することが必要なのだと思います。それは、自らの傷を癒す作業だということも出来ます(意識化の仕方や程度・癒しの方法は、人さまざまだと思います)。そのとき、「臨床の現場のつらさ・大変さも知らないで(たいして関わっていないのに)」という思いがネガティブなものからポジティブなものに変わるかもしれません。 (2016.03)

コミュニケーションのススメ 日下 隼人 コラム

● 本コラムの内容は、著者 日下 隼人の個人的な意見であり、マイインフォームド・コンセントの法人としての考え、および活動に参加しておられる模擬患者さんたちのお考えとは関係ありません。

● コラムNo.230 までは、東京SP研究会ウェブサイトにアクセスします。