No.253 ホンモノじゃない
コラム目次へ 医療面接演習で「こんなのホンモノじゃないんだから」と言った学生のことをNo.252で書きましたが、つい私たちはこのような学生を「とんでもない学生」と思ってしまいます。でも、もしこの学生自身が「大きな」病気をした経験があったとしたら、あるいは家族の「重い」病気とつきあった経験があったとしたら、その学生のことを否定的に評価することはできなくなるでしょう。そのような事情があれば、「こんなの、違う(こんな「子供だまし」みたいだ)」、「(同級生たちは)よくこんな『お遊び』につきあってられるな」と思ってしまうかもしれません。医療面接演習の後で「模擬患者さんは本当の患者さんのようで感心しました」と言う学生に、「おまえは本当の患者を知らないだろう」と思うでしょう。本当の患者のつらさ、悔しさ。言いたいことも言えない歯がゆさ。医療者への作り笑い。いつ恐ろしいことを言われるかとびくびくしながら医者の言葉を聞く気持ち。お礼を言うしかない立場。こうした言葉にも収まりきることない複雑な思い。どのような言葉でも語りえず、語りたくもないような経験。演習で出会うのは、漂白された「患者」です。
にこにこして爽やかに「ありがとうございました、とても勉強になりました」と言っている学生の中にも、つらい病気体験をしてきた人もいるはずです。医療面接演習には、そのような人のつらい・悔しい思い出を蘇らせ、せっかくできていた痂皮を剥がしてしまう力もあることを見失わないようにしたい(ある知人のことを思い浮かべながら、この文章を書いています)。
模擬患者は、「事件は現場で起きているんだ」と思う医者と「事件は現場で起きているんだ」と違和感を抱く患者(学生)との狭間にいるのです。
「模擬患者には身体診察演習も引き受けてほしい」と言う人は、その根拠として「リアリティが増す」と言うのですが、演習をどのように「工夫」しても、「リアリティ」との溝はきっと開くばかりです。アンケートで学生が「本当の患者さんのようで感心した」「リアリティがあって良かった」と指導者の喜びそうなことを言ったとしても、それは身体診察を支持する根拠にはなりません。演習という条件の下で、患者さんの身体に「触れる」ことで生まれるリアリティなどたかが知れています。そもそも、指導する方もされる方も、このような演習にリアリティがあるとは信じていないでしょうから。
「ホンモノのようだ」などという言葉は、見ず知らずの他人(それも年長者)・患者らしきものに初めて会った素朴な感想以上のものではないでしょう。そうだとしたら、まだこのような演習のレディネス(準備性)ができていないということです。人は「ニセモノ」から学ぶこともできるし、「ニセモノ」だからこそ学べることがあります。混沌としすぎているホンモノからポイントを抽出している(「漂白」している)からこそ、学べることがあるのです。ニセモノで学ぶ姿勢のない人は、ホンモノでも学べません。そのような姿勢が生まれたときに、レディネスができたと言えるのです。
25年前、私がはじめて医学教育学会に参加したとき、学生へのアンケート結果を踏まえての演題に対して、フロアから立った医学生が「学生は教員の期待に沿うような回答をするに決まっているのに、そんなアンケート結果からこの教育が有効であるとほんとうに言えるのですか」と質問しました。「そんなことは、本当は誰でもわかっている」からでしょうか、その問いは軽く流されてしまいました。※
学生や教員、患者さんからのアンケートの結果についての学会発表が多いのは、今でも変わりません。95%の人が「良かった」と言っているから、「95%の人が、このように変わったから」有効であるという主張に、全く意味がないとは思いません。けれども、「良くなかった」と思っている5%の人はどんなことを思っているのでしょう。「変わらなかった」5%の人は、どうして変わりたくなかったのでしょう。このような人たちこそが、その方法の問題点を明らかにしてくれそうです。「否定的な意見は100人中1人しかいなかった」とすれば、その一人ときちんと向き合うことが事態を変えていく原動力となるはずです。せめて、その少数の人の言葉が発表されていればと私はいつも思うのですが、出会ったことがありません。
もっとも、指導者が「良くなかった」と書いたごく少数の人に「どうして『良くない』と思ったの」とコワイ(=真剣な)顔をして尋ねてくれば、その人は本当のことを話せなくなるでしょう。ワクワクしながら異を唱える人の言葉を聞く姿勢を持ち続けることは、人から学ぶための基本だと思います。(2016.09)
※ この学会のシンポジウムで、看護教員が現象学的考察について発表したのだが、その時の座長の「現象学について自分は全く知らない」という発言が忘れられない(この言葉自体は謙遜だった可能性がある)。看護の世界では、現象学という言葉、フッサールやメルロ=ポンティという人名が語られることも少なくない。けれども、そのような言葉を聞いた瞬間、ほとんどの医師の耳はそれ以降の言葉を聞こうとしなくなる(何度聞いても現象学がよくわからない私は、それも仕方ないと思う)。このような言葉から看護・ケアを語りだすということは、はじめから医師との回路を遮断しているに等しい。