No.442 ACPは「生きる希望の灯」を灯すか?(4)
コラム目次へ ACP、つまりこの先の人生/そこで受ける医療の希望について、それは医療者から言いだされることではないのだと思います。
患者さんが自分の「思い」を言い出してきたときに、その「思い」を受け止め「せいいっぱい頑張ります」と応えて話し合うことではないでしょうか。そこで患者さんの心に「希望の灯」が灯ることになれば、はじめて「うまくいった」と言えるのです。「うまくいった」のは「ACP」ではなく「おつきあい」です。
患者さんが自分の思い/希望/願いを言い出せないのは、知識がないからではありません。医療者が聴く姿勢を持っていないからです。患者さんは医学知識をわずかしか持っていないかもしれませんが、医者は患者さんの「人生」についての知識をほとんど持っていませんし、見ようとしてもいません。
医者は、聴く姿勢を持っていると期待されていないことが少なくありません。期待して裏切られるくらいなら期待しないほうがましです 1)。患者さんは、期待しないでおこうと思わされるような医者の言動を飽きるほど見てきているものです。そんな「人種」だとみられていることを、医者は愧じているでしょうか。
医療者の立場から考えだす姿勢を取らないように自戒し続けることこそ「医者に求められる矜持」だと思います。
「あなたはあなたであるから大切なのです。
あなたは、あなたの人生の最後の瞬間まで大切な人です。
そして、あなたが平穏に最後を迎える手助けだけでなく、
あなたが最後まで生きられるように、
私たちは私たちにできること全てをします。」
シシリー・ソンダース(1918-2005:近代ホスピスの母)
ACPを勧める/進める人たちは、このような言葉を患者さんに語っているでしょうか。どの行にかかれていることも、現在の(少なくとも大病院で行われている)ACPとは縁遠いと感じます。
この言葉は、医療費を抑制したい(しなければ)という下心とも、ACPがあると医療者が「やりやすくなる」(手間が省ける)という下心とも無縁です。
この言葉の後に、「無駄な医療」「無益な(害する)医療」というような言葉を続けることはできないでしょう。
この言葉は、ホスピスや緩和ケアだけのものではありません。医療・ケアのすべてはこのためにあるのです。医療倫理は、この5行だけで十分です。このうちの1行でも満たされていなければ、医療倫理に悖ると言いたい。(2025.06)
1) 「「誰にも言ってないので共感されようがない」という状況に自分を持っていくと、「共感されたいけど、してもらえない」苦しみから距離を置けるのである。」津村記久子「日記のマナー」『考えるマナー』所収 中公文庫2017(この文章はNo.289「トットちゃんとケア」でも引用しました。)
日下 隼人