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No.254 大人なんだから

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 「病院はサービス業じゃないかもしれないけど、人の話はちゃんと聞いて欲しいし、その受け答えを聞いた相手がどう思うかくらいの思慮は、大人なんだから出来ないとダメだと思うな」という患者さんのツィートを見かけました。医療者の接遇、コミュニケーション、プロフェッショナリズムなどいろいろなことが語られますが、「大人なんだから」ということに尽きることがずっと多いような気がします(小児科医としては、「大人なんだから」と言う言葉にも差別的意味合いがあると思っていますが、ここではこのまま使っておきます)。

 全く別のツィートですが、「ワクチンにしろ、薬にしろ、現代の日本の医療を避けたいと思う人がいるのはわかる。しかし、そういう人が命の危険を感じたときに医療を頼るのはわからない。最後まで自分の信じたことを貫けば良いのに、都合の良いときだけ現代医療に頼る。現代医療を信頼していないのなら、それはやめてもらいたい」と言っている医師がいました。
 「医療を避けたい」という思いには、間違いなくある種の「健康さ」があります。「医者の不養生」という言葉もそのような意味と解釈するほうが良いと思いますし、現代医療を可能な範囲で遠ざけている医者もいっぱいいます。そのような医者も、本当に現代医学に頼るしかない時があることは十分知っていますし、そのような時には進んで受診しています。医者をしてきたのだから、現代医学をすべて受け入れなければならないということでもありません。

 現代医療を「避けたい」と思い続けている人でも、どうしても「避けきれず」不本意ながら現代医療に頼ることもあります。「できるだけ避けよう」としている人も、現代医療の良い面も見ているはずです(現代医療を担っている人たちの在り方に、「医療を避けたい」と思わせてしまう何かがあることへの目配りも必要ですが)。「現代の日本の医療を避けたい」という生き方の選択は、「今の医療を信頼する」ことと別に背馳はしていないと思います。むしろ医学に対する基本的信頼があってこそ、「できるだけ避けたい」。その「基本的信頼」を「甘え」「自分勝手」と見てしまうことは、信頼を踏みにじっています。
 信念が変わり、言うことが変わるのは人の常ですし、そうしなければ生きていけません。「がんと戦うな」と言っている人が、自分がそうなれば戦うことはありうることでしょう。「高齢者の医療は無駄だ」と言っている人が、自分が高齢者になったとき高度医療を希望することは、十分ありえます。高度医療を十分受けられる条件にある人が、このように言っていることも少なくありません(経済的裏付けとか身内に医療者がいるとか)。まして、病気の人に論理的整合性を求めることには意味がありません。論理的整合性を「超越」したところで生きています※。病気でなくとも、人間だれしも論理的整合性をもたない(自分に都合よい)言動をしているのですし、そのことを含めて人間を肯定できなければケアは生まれません。

 もうずいぶん前のことですが、「医者の言うとおりにしてくれる人なら、守ってあげたい」と言う医者に初めて出会ったときには「目が点」になりましたが(そのような人はいまだにいます)、一から十まで医師の勧める医療に乗る人とでなければ一緒に医療を考えていくことができないということはないと思います。それまで反発していた人が「都合のよいとき」だけ頼ってくれるならば、それは「素晴らしい」ことではないでしょうか。医学・医療もまんざら見捨てたものではないということです。矛盾しているからこそ人が好きになるのでなければ、人生は平板なものになってしまい、医療もつまらないものになってしまいます。「現代の日本の医療を避けたいと思う人がいる」ことが「わかる」という言葉は、その人がそのあと「都合の良いときだけ現代医療に頼る」ことがあっても、それを黙って「快く」引き受ける心積もりを持った時にだけ言える言葉なのです。
 それにしても、この人は何かよほど気に食わない出来事に出会ったのでしょうか。140字には入りきらない思いを聞いてみたいと思いました。やっぱり、「大人なんだから」と言ってみたい気持ちもありますが。(2016.09)

※ 副題に「自分はしてほしくないのに、なぜ親に延命治療をするのか」と書かれている本を見かけた。必ずしも理不尽なことばかりが書かれているわけではないが、このような「問いかけ」を目にする人は、この言葉に囚われていく。「生老病死」はどれも不条理で、最期の時は不条理の極みだ。そのような人が論理的存在であるはずがない。自分と親に対する思いが違うのは当たり前だし、自分だってそのときになればどう思うかわからないのだし、自分もそのときには周りの人の思いに左右されるしかないのだ。それなのに、どうして「論理的でない」と責められなければならないのだろうか。「論理的であることのほうが優れている」という思いに私たちは囚われているから(そのような事実の方が多いのは確かである)、「論理的でない」というニュアンスの言葉は、人を二重に痛めつけている。
 実のところ、「自分の未来についての漠然とした思い」と「現在進行している事態の中で、当事者として他人の命を左右する立場に居る思い」とを同じ土俵に乗せて語ること自体が論理的ではないと思う。「論理的」「非論理的」のどちらが良いかというような二値的(二項対立的)な思考がそもそも不適切であるが、「一見論理的な非論理」に私たちは気づきにくい(「一見論理的な非論理」は、他人の攻撃に使われることが少なくない)。
 「安楽死」や「尊厳死」という言葉から衣装変えした「平穏死」「望ましい死」といった言葉が目くらましになり、「(その対極として描かれる)延命治療」は悪いものだと思いこまされる(死は千差万別なのに二極化され、二項対立として迫ってきている)。もはや「死」は記号と化しており、そのことで生権力を強化する。そこには、障害者の抹殺を正当化する「思想」と通じるものが流れていると思う。

コミュニケーションのススメ 日下 隼人 コラム

● 本コラムの内容は、著者 日下 隼人の個人的な意見であり、マイインフォームド・コンセントの法人としての考え、および活動に参加しておられる模擬患者さんたちのお考えとは関係ありません。

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