No.291 聖職という言葉
コラム目次へ 高校生のころ、進路を教育学部にするか医学部にするか、ずいぶん長い間私は迷っていました。もっとも現場の教師が自分にできるとも思えなかったので、教育学を研究したいと思っていました。「それなら医者もできないだろう」と、今の私は高校生の自分に言ってみたい気もします。その後いろいろあって医学部に進むことになったのですが、そのときには「子ども関わる診療科に進む」と自分を納得させ、その通りになりました。そんなことから、大学に入ってからも教育関係の本は読み続けていましたので、私の医療への姿勢(医学教育への姿勢も)や子どもへの姿勢はそこで身に付いたようです。
1970年ころ教育の世界では、「教師聖職論」「教師専門職論」(そして「教師労働者論」)をめぐる議論がずいぶん交わされていました。「医師のプロフェッショナリズム」という言葉を耳にすると、そのころの議論が蘇ってきます(最近「医師労働者論」も語られています)。
今日、「医師は聖職」というような言葉はあまり聞かれませんが、プロフェッションを説明する際には神からの「召命」という言葉から語られることも多く、そこでは神職や法律家と共に医師が「聖職」であることが(暗黙の)前提とされているようです。教育の議論を見ていたため、私には聖職という言葉が医者になったころから要注意の言葉になっていて、プロフェッショナリズムという言葉には馴染めない気持ちが先立ってしまいます(No.11でも書きました)。先日「医学教育専門家」という呼称(肩書?)を目にした時には、身体がむず痒いような気がしてしまいました。
「聖職」という言葉から私を遠ざけてくれた文章をいくつか。
「特定のある職業に『聖職』の冠をかぶせることは・・・必ず誰かを下賤視している」(森下計二「教師・その日常と生存感覚」現代書館1972)
「健康、学習、威厳、独立、創造といった価値は、これらの価値の実現に奉仕すると主張する制度の活動とほとんど同じことのように誤解されてしまう。」「教育は非世俗的なものとなり、世俗は非教育的なものとなるのである」(I.イリイチ「脱学校の社会」東京創元社1977)
イリイチはこうも言っています。「専門家は人間の性質について秘密の知識を持っており、それを行使する権利は彼らにだけ与えられていると主張する。彼らは、何が正常からの逸脱で、それをなおすのに必要な療法は何かを決める独占権を自分たちが持っていると主張する。」「専門家の権威には、・・・助言し教授し指導する知的権威、それを受け容れることが義務であるみなす道徳的権威、そして最後はカリスマ的権威」(「専門家時代の幻想」新評論1984)
専門家の知的権威を保障する医学知識-「健康」こそが人を支配しているということはNo.237-241でも書きました。
「近代世界のさまざまな局面において、健康というものがいかに徹底してわれわれを支配していることか。その支配の力は驚くべきほどである。」「人が健康を望むならば、それはおおむね、社会的規範への同調を意味している」「健康ということは・・・社会的同調の概念、あるいは社会の側から言えば社会的統制の概念の内容を指している」「多様性と寛容の認められたこの世界では、同調は空気のようなあり方で強制される」(いずれも富永茂樹「健康論序説」河出書房新社1973)
「このような〈専門的知識・技術〉への執着が、いかように人間的な『自由』や『自律性』によって祭りあげられようとも、それが例外なく自己の世俗的なわずかな利己的な『特権』の保障と結びついている限り、人びとの内部での分裂と差別に帰着する」(岡村達雄/村田栄一「教育現論」明治図書出版1975 の中での引用)
「子どもの世界の現実や内面に自分の意識をくぐらせてみようとすることを完全なまでに滅却し、自らがなにがしかの『善』と『知識』の代弁者だと思い込みつづけているところに専門職論―聖職者論の重大な陥穽があると言えよう」「より上位をめざすもの、より権力に近づこうとする意志であるということができる」(武藤啓司「教育闘争への模索」社会評論社1974 1))
小児科医の松田道雄はもっとすっきり「権力をにぎっているがわと、そうでないものという分類のほうが、現在の世界によくあてはまるようだ」(「花楽小景」筑摩書房1981)と言っています。
「生活から舞い上がり、『教育』とか『指導』とかいう抽象的な範疇に自らの行為を勝手に位置づけてしまえば、人間に不可能はない。・・・生活者としての、生々しい感覚も感情の機微もなく、人間存在に対する謙虚なおそれや恥じらいもなく、ただ、『教育』と『指導』に熱中するその熱心さだけが教師を支える。」 (斎藤次郎「小さな同時代人」冬樹社1980)
「どんなまずいことをしでかしても、『教育的配慮によってやったことだ』『すべて子どものためにやったことだ』と言えばすぐに免罪されると信じ込んでいる。それどころか、自分たちに批判を加えたものを教育の異端者としてほおむり去ることができると信じているその思い上がり」(遠藤豊吉「年若き友へ」毎日新聞社1978)
「cureという語は・・・・ベーコンを塩漬けする、皮をなめす、ゴムを和硫する、患者を治すというように使われる。治すこと(curing)は通常原料をより良い味にしたり、より使いやすくしたり、より長持ちさせるために、原料に対して化学的処置を施すという意味を持っている。治すということは癒すこと(healing)の真の意味を受け継いでいないばかりか、多くの点で全くの対極に位置しているのである」(D.クーパー「反精神医学」岩崎学術出版社1974)
プロフェッショナリズムをいろいろ難しく語らなければならない大学の先生たちは大変だなと思います。医学教育学会も、昔よりずっと学会らしくなってしまいました。「自分たちはエリートだ」と思い「上から目線が染み込んでいる」人の方がずっと多い医者の世界(それに、そもそも人は誰でも自分がエリートだと思えることが心地よいのですし)でのプロフェッショナリズム教育には、そうした意識を増大させる力の方がずっと大きいでしょう。それでも、Cureから身を引き離し、エリート主義や専門性による管理という思想を内側から溶解するプロフェッショナリズムの可能性がないわけではないと思います。
「やさしさのないきびしさは、教育におけるほんとうのきびしさではない。そして厳しさの無いやさしさを、子どもは相手にしません。・・・教師というのは、絶望を通り抜けるというような経験は、あまりない。そういう人たちには、やさしさということは、わからないんです。・・・やさしさを持っていない人は・・・厳しく生きていないからだ・・・。」(林竹二「教育の再生を求めて」筑摩書房1977)
「先生と呼ばれ、子どもという弱者を相手にしていると、いつの間にか子どもにたいして傲慢な心が強くなってしまう」(平井信義「子どもの個性をどう伸ばすか」筑摩書房1976)
「子どもが好きで、彼らに向かうと自然に心の動く人であることが、子育てをする人間の最大条件と違う?」(思想の科学「子育て」1973.11)
「人間の犯す罪の中でもっとも大きな罪は、人が人の優しさや楽天性を土足でふみにじるということだろう」(灰谷健次郎「わたしの出会った子どもたち」新潮社1981)
「プロの仕事は人のいのちを息づかせる力もある」(「トットちゃん」11月22日放送)
こんな言葉を伝えるプロフェッショナリズム教育があればいいのにと思っています。(2018.02)
1) この本の中では、教育労働における多忙さへの対策として、教師は教育的な仕事のみに専念できるようにされるべきだ(教師はそれ以外の仕事をしなくてよいようにすべきだ)という「本務論」についても触れられています。武藤は「職務を限定しようとする意識は『本務外労働』を雑務と蔑視し、雑務労働者という下位概念を再生産し、職業における差別構造を深化させる」と指摘しています。看護の世界では、ずいぶん前から「看護師は看護本来の業務に専念すべき」ということが語られ、実際にそのように分業化が進められてきました。この言葉には医師の「専制的支配」への対抗としての意味があったとは思いますが、看護助手、クラークなどの導入、他方で認定看護師、専門看護師などが導入され、階層化が進行してきたことも確かです。30年後、医師の業務についても同じことが語られ、差別への批判的議論などはないまま、診療補助者が導入されました。いったん自分の関わる世界を本務と雑務とに切り分けだすと、本務の世界をどんどん狭くしたくなります。そして、本務以外のところに広がる患者さんの世界は見えなくなり、ますます医者の視界は狭くなり、患者さんからは遠ざかるという事態が生じます。