メインビジュアル

No.397 PLAN75

コラム目次へ

 映画「PLAN75」が話題です。映画は、「深刻さを増す高齢化問題への抜本的な対策として、75歳以上の高齢者に死を選ぶ権利を認め支援する制度、通称プラン75が国会で可決され、実施された日本」を描いています。監督・脚本の早川千絵さんには、「障がい者施設の殺傷事件など生きることに理由を求め生きる価値を問われるような現代社会の在り方、生産性を求めたり差別的な発言をしたりといった不寛容さが加速する現代社会に対する危機意識があった」と言います (朝日新聞2022.6.28 1面・3面)。「人の命を生産性で語り、社会の役に立たない人間は生きている価値がないとする考え方への危機感が、映画を作る原動力になった」とのことです。しかし、PVを見た人たちの間では、「この制度が実際にできればよい」という好意的な意見も少なくないとのことです。元気な人には、まだ他人事だからなのかもしれませんが。
 このような制度が現実のものになったら、「選択だから、どちらを選んでも最大限に尊重します」と医療者が言うとは考えにくい。死を選んだ人の「美談」のほうが声高に語られ、「生きることを選ぼうとする人」に対して「信じられない」「他人に迷惑をかけて」といった言葉が投げかけられることは想像に難くありません 1)。すでにそのような事態が進行しており、そのような言説が氾濫しています。そんなふうに言われたくないばかりに「もう生きなくて良い」と言うしかなくなる人もいるでしょう。このような制度に異議を唱えようとしても、「自己決定権って、あなたたちがこれまで求めてきたことでしょう。その権利を認めていますよ」と、抑え込まれてしまいそうです 2) 3)。ここでは、他人から自己決定を迫られるというパラドックスが生じています。

 誠実な在宅医に支えられた自宅での穏やかな死が日々報道されています(例えば、朝日新聞 土曜版)。個々の医療者の真摯な実践に私も敬意を抱きますし、実際には少なくない問題点が指摘されている在宅医療の現状に対する問題提起としての意味も大きいと思います。それでも、こうした報道の連鎖が入院医療への忌避感を醸成し、在宅医療への誘導の役割を果たしているのも事実です。しかも、そこでは家族の介護が当然のことのように前提とされています(介護しない家族は責められます)。
 入院日数の短縮のために、早々に退院や転院を迫られる現在の病院医療で良いのでしょうか。在宅医療の役割は、とにもかくにもその受け皿です、「住み慣れた家のほうが良いでしょう、ね、ね」という甘い言葉とともに。どうして、「模範的な」在宅医療で出来ていることを入院医療でもできるようにという提言はないのでしょうか 4)。外国と比べて「日本のベッド数が多い」「入院期間が長い」「医療経済が危ない」といったことを、医療を考える際の「不動」の基準点から外せば、事態はもっと多様に柔軟に考えられると思います。「過剰な医療」「無駄(無益)な医療」「無理やり生かされる」「生産性」「生きている価値の有無」というような言葉の使用を避けるところで医療を語りたい 5)。後期高齢者医療費の自己負担増だって「長生きされては困る」と暗々裏に言っているようなものです 6)

 現代の医療は、病気になった人の「無念さ」「寂しさ」「つらさ」「混乱」をせめてしばらくの間でも「そっとしておく」ことも、「感情が溢れ」ている様子をそっと見守ることも断念したのでしょうか。混乱の只中にいる人に「殿、ご覚悟を」とばかり短刀を突き付けるような仕打ちをACPと言い、突然の病に呆然としている人のことを「ふだんから死を考えていない」と責めるような医療が、「進歩した医療」と言えるのでしょうか。初対面の、まだまともに人間関係ができていない人たち(しばしば胡散臭い)と、自分のこれからの生き方について混乱した頭で話し合うことを迫られるのが(いくら緊急事態であっても)、「望ましい医療」でしょうか。インフォームド・コンセントも、そのようなものとして機能している場合が少なくありません。
 「落ち着いて話を聴いている」「しっかりしている」「冷静だ」「受容できている」などと簡単に患者や家族のことを判断しないでほしい。心の揺れを見せないようにしている人のことを、見ない振りしないでほしい。同時に「弱い」だけの人とも見ないでほしい。ひそやかに涙する人のことを、そっと一人にしておいて、でも、黙って見守ってほしい。「だいたいあの精神医学などと称するものは、どうして人びとの秘かな悲しみをそっとしておいてはやらないのでしょう? 悲しみこそはこの世で人びとがほんとうに所有している唯一のものではないでしょうか?」(ウラジミール・ナボコフ『プニン』新潮社1971/文遊社2012)

 「人生の最後くらいは自分で決めたい」とテレビのインタビューに答えている人がいました。これまで「尊厳死」を求める人たちや「死の選択」を主張する人たちから、スローガンのようにいつも繰り返し用いられてきた言葉です。「最後くらい自分で決める」と言う時、「生き抜く」という選択肢は除外されているかのようです 7)。それでは「自殺」と大きく違わない。このテンプレート(雛型)のような言葉が出て来てしまうのは、スローガンに「洗脳」された結果なのではないでしょうか 8)。テンプレートの言葉が滑らかに出てくるとき、人はすでにどこかで思考停止しているか、思考することや自分の意見を主張することを諦めているのではないでしょうか。このような言葉によって傷つく人は間違いなく居ますが、そこに目が向かないような「目隠し」もいつの間にか付けられているようです。
 あるいは「言葉を奪われていて」テンプレートの文章に頼るしかないこともあるかもしれません。「言葉を奪われている」人々は、「権力」の用意する(期待する)言葉しか持ち合わせず、その結果いつも制度の最初の犠牲者になります。そして、いったん犠牲者が出ると、そこから犠牲者の対象は無限に広がっていきます。「権力」に都合の良い言葉を自分から進んで(時には先取りして)思い込み、そのように行動するという、M.フーコーの言う「生権力」が支配する社会はすでに実現しています。「人生の最後のこと」さえ実は周囲(世間)によって決めさせられているのに、まるで自分で決めたかのように思いこんでしまわされます。ACPは、そのことに一役も二役も買っているのです 9)
 PLAN75は、SFでも近未来への問題提起でもなく、「現在」の告発です。(2022.10)

1) そのことを批判しても、「そんなことは言っていませんよ。どちらの選択もできるんですよ。考えすぎですよ」というような反論がされてしまうでしょう。三木那由他さんは、そのようにして“力のある側”が「自分に都合のよいように捻じ曲げた約束事に相手を服従させる」暴力的なコミュニケーションを「意味の占有」という言葉で批判しています。『会話を哲学する コミュニケーションとマニピュレーション』光文社新書2022

2) 「人権」とは、その人が「より良く」「その人が望むような形で」生きていくことを可能にする条件を保障するための概念です。その権利は、「生きにくい」状況にある人(障碍者、外国籍の人、民族や出自で差別を受けている人、ジェンダーマイノリティの人などなど)が「生きやすく」なるようにこそ保障されるべきものです。「死ぬ権利」などと「生を中断する」選択を余儀なくされることについて、「権利」という言葉を用いるのは誤用以外の何ものでもないと思います。「ジェンダーフリーが間違っているとの国民的なコンセンサスがやっとできた」と演説した政治家が居ましたが、この人には、この言葉にとてもつらい思いをする人のことが目に入っていません。傷つく人は少数派かもしれないけれど、だからこそ、少数の人の「生きにくさ」に目配りができない人は政治家にはふさわしくない。

3) 「障害者が生きるための支援を権利として求める声はなかなか届かないのに、死ぬ権利を求める声はこうしてたやすく聞き届けられていく。」児玉真美『殺す親 殺させられる親』生活書院2019

4) コロナ禍の中、医療的ケアを必要とする障害者とその家族は、これまで以上に不可視化され、在宅医療から真っ先に疎外されています。「このクソ忙しい時に障碍児なんか診ていられるか!」と電話の向こうで怒鳴ってる医師の言葉は、「こんな時だから高齢者や障害者は後回しでも仕方ない」という思想を端的に表しています。児玉真美『コロナ禍で 障害のある子 をもつ 親たちが 体験していること』生活書院2022

5) 安藤泰至・島薗進編『見捨てられる〈いのち〉を考える』晶文社2021

6) 75歳以上の人もいろいろの状態の人がおり、「高齢者」という言葉でひとくくりにしてしまうことには無理があるように思います。同じように、「女性」「子ども」「障碍者」「○○県人」「○○国人」「LGBTQ」・・・といった形でまとめて語られること(語ること)にも危うさがあります。まとめて「面倒見よう」ということは、「まとめて廃棄する」に通じます。どちらにしても、たくさんの人をまとめてみてしまうことは、医療の心とは反対のものです。

7) 「六〇年代のラカン理論では、対象αは自由の機能を担う「分離」と関わっていたが、そこで得られる自由は、「自由か死か」のどちらかを選ばされた際に、自分が自由であることを示すために死を選ぶような強制的な選択(疎外)と言う不自由性を前提とした括弧つきの自由であった」(松本卓也『人はみな妄想する ジャック・ラカンと鑑別診断の思想』青土社2015)という指摘は、「人生の最後くらいは自分で決めたい」という言葉で死に方を選ばされる現在の医療にぴったりと嵌っています。

8) これは「適応的選好形成」(ヤン・エルスター『酸っぱい葡萄 合理性の転覆について』勁草書房2018)です。実行可能な選択肢に応じて選好が変化すること、とりわけ実行可能な選択肢が貧弱である場合に、そこからでも十分な満足を得られるように選好を切り詰めてしまうこと。

9) 「ACPのデメリットとして、ALSの人が死ぬ直前になって呼吸器を付けたいと言い出しても、医者だけで動けないようになってます。全体の合意で「つけない」と決めたので、本人と医師だけで決められない。これは医師が独善で安楽死を行ってしまうような行為の防止にもなっているんだけれど、逆に言えば、緊急的な救命もできなくなってきているってことかと。」(川口有美子さん ツィッター)


日下 隼人

コミュニケーションのススメ 日下 隼人 コラム

● 本コラムの内容は、著者 日下 隼人の個人的な意見であり、マイインフォームド・コンセントの法人としての考え、および活動に参加しておられる模擬患者さんたちのお考えとは関係ありません。

● コラムNo.230 までは、東京SP研究会ウェブサイトにアクセスします。