No.447 『患者と目を合わせない医者たち』(1)
コラム目次へ 『患者と目を合わせない医者たち』という本が最近出版されました(里見清一著 新潮新書2025)。
この人の論調には私はなじめないものがあるのですが、今回はこの表題から考えたことについて。
「患者と目を合わせない」「患者の方を見ない」医者のことは、私が医者になったころからずっと言われてきました。長い間「カルテばかり見て/カルテ記入ばかりして」、そして最近は「コンピュータの画面ばかり見て/入力ばかりして」と言われます。
限られた時間なので、書くこと/入力することにせいいっぱいだということは分からないではありません。ブラインドタッチをしていても(私にはできませんが)、その医者が見ているのは画面の方ばかりです。
コミュニケーション技法的に言えば、「時々、顔を患者さんの方に向けて、目を見よ」ということになります。患者さんの話が一段落した時、患者さんの言葉の雰囲気に何かを感じたとき、自分の話が一段落した時、どうしてもわかってほしいことを言った時などに、一呼吸置くことは欠かせませんし、その時に相手の顔を見ないということはありえないと思います。
現実にはないことですが(医療面接演習では時に見かけることですが)、じっと見つめられていたら「苦痛」ですし、とりわけ医者が見つめる場合には「圧迫」です。
でも、目を合わせさえすればよいというものではありません。
患者に目を合わせることには危険が伴います。「温かいまなざし」「冷たいまなざし」という言葉があるように、目を合わせたばかりに「冷たさ」が際立つことがありえます。
人を拒む/否定する/見下ろすような目つき。「この患者は何を言ってるんだ」「この患者、説明が分かっているかな」「何か“文句”を言ってこないだろうな」などと思って患者さんを見るならば(そんな医者は少なくない)、「目を合わせない」以上に人を傷つけます。医者のそんな目を感じたことのない患者さんのほうが少ないのではないでしょうか(そのことが分かっているから、目を合わせない医者もいるのかも)。
どうしても医者の“力”が圧倒的に強い医療の場です。「温かいまなざし」を意識して心がけなければ、まなざしは「冷たい」ものと感じられるものになりがちです。医学教育の中にそのことを学ぶ機会はあるのですが、生物学的な対象として患者を見る教育の強さの方が勝ってしまいます。現場の「教育力」は、患者を「見下ろす」ほうに働きます。
「患者と距離をとるような方略が張り巡られた現代のカルテの書式を用いて書いているうちに患者の苦悩、不安、病の物語が視界から消えてしまう。」(岸本寛史「身体と言語とカルテ-言語化とカルテ」/野村直樹『ナラティブ探究』遠見書房2025から孫引き)
「自分と他者との関係が肯定的なものである場合、まなざしは自分を安定させる力となるが、自分と他者との関係が否定的なものである場合、まなざしは自分を不快にさせる力となる。まなざしのモードを決するものは、私の抱いている相手への好感度である。」(田中智志『臨床哲学がわかる事典』日本実業出版社2005)
「身体の構えを変えると心の構えも変わり、その逆も言える。「身」がからだもこころも含んでいるように、身構えは体の構えでもあれば心の構えでもあります。」(市川浩『精神としての身体』勁草書房1975)
「目を合わせない」ことだけを批判しても、ケアが深まるわけではありません。
日下 隼人