No.439 ACPは「生きる希望の灯」を灯すか?(1)
コラム目次へ ある大学で「あなたのACPはなぜうまくいかないのか?」という勉強会が開かれたそうです。
でも、この「うまくいく」というのは医療者にとっての言葉のようだということに、私はまずひっかかってしまいました。患者からみれば、どこへつれていかれることが「うまくいった」ことになるのでしょうか。
ACPは「うまくいかない(何の問題もなく、患者も医療者もhappyに終始するということはありえない)」のがデフォルトであり、「うまくいっている」ように見えても「どこかでうまくいっていないはずだ」と見る視点が欠かせないと、私は思います。
インフォームド・コンセントは、「生きる希望」と「ひとりじゃない」という思いが患者さんのなかに生まれるように「お互いに支え合い、手探りで一緒に進んでいく」つきあいを生み出すためのものだと私は思っています。
私がそのことに気づいたのは、先の戦争でシベリアに2年あまり抑留された老人が「未来がまったく見えないとき、人間にとって何がいちばん大切か」と問われて、「希望だ。それがあれば、人間は生きていける」と答えたという話を読んだからです(小熊英二『生きて帰ってきた男 ある日本兵の戦争と戦後』岩波新書2015)。
病を得て「未来がまったく見えなくなった」時、この先「生きる」ことへの希望がなければ人間は生きていけない。患者さんの心に希望の灯を灯さなければ、それは医療の名に値しない。
ACPだって同じことではないでしょうか。「ACPがうまくいく」ということは、患者さんに「生きる希望の灯がともる」ことであり、医療者がいつも「傍らにいる」ということ、患者さんの「望むことが実現するように医療者がみんなで全力を尽くす」ということでなければならないと思います。勉強会で、そのことが伝えられたでしょうか。
柏﨑郁子さんは次のように書いています。
「医療の目的を「生存」以外に求めることは、存在論的に明らかに矛盾しており、不合理である。また、「健康」概念を拡大し、「人生の目標」といった論争のある「規範」を医療の目的の中に含めることは「傲慢」とも言えるし、正に「ほとんど達成不可能なゴール」を目指すことになるかもしれない。」「患者が「残酷」「無情」「無慈悲」と見做されるような状態であると「感情」のレベルで共感するようなdispositionに基づいて安楽死を肯定することはケアリングではない。かつ、ケアリングは、利益や福利といった倫理原則に固執するものではなく、ケアリングそのものが徳であると言えるような一定の知識基盤である。」(「ヘルガ・クーゼにおけるケアリングと安楽死」学会誌『生命倫理』34-1 2024)
医療の場でこうした考えが「あたりまえ」でなければ、それはおかしいのです。政治も同じです。「生きたい」ということが「良くないこと」とされ、「早く死ねば(死ぬ方が)いいのに」「治療などしてどうする」という雰囲気が広がる社会は「良い社会」でも「楽しい社会」でもないと思います。(2025.06)
日下 隼人