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No.262 挨拶ができるようになっただけ?

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 48回医学教育学会大会のシンポジウム「共用試験OSCE10年を考える」で、「医学生は変わったか」と問われたシンポジストが「挨拶ができるようになったことは確かだ」と答えたことに対して、「それだけなのか」と言いたげな笑いが会場に広がりました。現実には、挨拶するようになっただけでなく、言葉遣いも丁寧になりましたし、「開放型の質問」で相手の話を遮らず聞き、「共感的な言葉」を言い、話をまとめ、患者さんの考えや希望を尋ね、言い残したことがないか確認することが大切であることも知るようになりました。
 「たかが挨拶、されど挨拶」です。医師が患者さんより先に挨拶し、自己紹介することで、これまで医者と患者との間にあった壁に「扉が開いた」と感じた患者さんも少なくないはずです。「挨拶」「お礼」「お詫び」がきちんと言えれば、人とのつきあいは深まるものです。
 開いた扉から見える部屋の光景が「だまし絵」に過ぎなかったということも、だまし絵ではないけれど部屋が暗く寒々しいものでしかなかったということはまだまだあると思います。「形骸化したOSCEのためにかえって共感能力が落ちている」、「コミュニケーションを技法と称し、ツールとして用いる。手段化された人間関係の構築は、相手を対象として冷やかに見つめる観察者、対象を操作する技術者をそだてるだけで、生のつきあいを遠ざけてしまう」(川島孝一郎、現代思想 Vol42-13 2014)という側面もあると思います。でも、OSCEは扉を開けるという、一番大変な仕事をしてきましたし、今もしています。
 そこから入る部屋を患者さんにとって居心地の良いものとするのは、OSCE後の、そして初期臨床研修以降の指導医の仕事です。指導医の中には、医学教育に関心のない(関わりたくない)人たちも少なくありません。それどころか、指導医にも病院の管理的立場にいる人にも、「扉が開いた」ことを不愉快に思い、せっかく開いた「扉を閉めたい」と思っている人もいます。「OSCEには意味がない」「OSCEが事態を悪くしている」と言ってしまうことは、扉が開いたことを不愉快に思う人を元気づけ、「角を矯めて牛を殺す」ことになりかねません。シンポジウムでもOSCEについての問題点は的確に指摘されていましたから、その解決に取り組みOSCEを活かしていくことは私たちみんなの課題です。現に、医学教育に携わる医師は、OSCE後の指導に関心の薄いたくさんの医師に対して地道に働きかけ続けています。
 医療面接について言えば、その目的を患者の情報収集・患者教育という医療者主導の枠組みに置く限りOSCEは形骸化していくと思います。患者さんと医療者とが心を通わせていくつきあいを深めるための第一歩として、OSCEで求められていることが必須であるということが、もっと伝えらなければならないと思います。鷲田清一さんは、教育は「『教える/学ぶ』から『伝える/応える』という原点に戻らなければ」(『おとなの背中』)と言っています。
 教育の評価は、短い時間でできるものではありません。自分の生きている間に見られるoutcomeなど、たかが知れています。共用試験OSCE開始からまだ10年しかたっていないのです。OSCEを終え必修化された臨床研修を修了した医師たちが指導医になりつつある現在、彼らは、扉の空いた部屋を患者さんにとって居心地良いものとするように後進を指導してくれると思います。若い人たちが作り出す未来を信じて、彼らに「賭けて」私たちの思いを伝えようと発信しつづけることが、教育です。

 この文章は、雑誌「医学教育」47巻5号に書いたものに一部手を加えたものです。文中にも書いたように、私は、「挨拶」「お礼」「お詫び」をきちんと言うことができれば、あとは接遇もコミュニケーションも自動的に動き出すという気がしています。「おはようございます。今日は寒いですね」のように挨拶と時候の言葉があれば、それだけでその人は相手から好意をもってもらえると言っている人がいました。「医療者に好意を抱きけたらいいなあ」と思っているのが患者さんです。好意を抱いてくれれば、そこから患者さんのほうがコミュニケーションを動かしてくれます。患者さんが自分に好意を抱いてくれていることが感じられれば、医療者もその人を無碍に扱うことはできなくなります。(2016.12)

コミュニケーションのススメ 日下 隼人 コラム

● 本コラムの内容は、著者 日下 隼人の個人的な意見であり、マイインフォームド・コンセントの法人としての考え、および活動に参加しておられる模擬患者さんたちのお考えとは関係ありません。

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