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No.334 再会

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 最近の指導医養成講習会では、以前武蔵野赤十字病院の研修医であった人や学生実習に来たくれた人が受講生として参加していて、再会を懐かしむことが増えてきました。「学生時代に病院見学でお話を聞きました」と言ってくださる方もおられるのですが、さすがにそのような場合の記憶はほとんどないので、少しドギマギしたりもしています。
 今年の武蔵野赤十字病院の講習会では、「学生の時の見学で、先生が外来で『自宅にお客様を迎えるように接している』(No.106などに繰り返し書いています)と言っていたことが一番印象に残っていて、自分もそうするように今も心がけています」と言ってくれる人がいました。
 「苦手な人にこそていねいに接するように心がける」(No.122で書きました)という言葉にいろいろ思うところがあり、自分もそのように心がけていると言ってくれた人もいます。誰でも、自分と合う人にはていねいに接するでしょうが、自分に合わない人・自分の意に添わない人に、「合う人」よりもずっと丁寧に接してこそプロです。内心「いやだな」と思っていればその気持ちは身体のどこからかにじみ出てしまいますから、心からそうしていなければ相手の人は心を開いてくれません。こちらの言葉は届きません。自分の身体からにじみ出ているものに気づかなければ、「丁寧に接しても、やっぱりこの人はだめだ」といっそう相手を否定的に見てしまうことになりがちです。
 ツイッターやブログなどで、自分と意見の合わない人や医者の意に添わない患者に対して、侮蔑的な言葉や口汚い言葉を投げかけている医者が少なくありません。「嫌患者」ではないかと思わされるヘイト的発言もあります。こうした言葉が「ガス抜き」になっているという見方もあるとは思いますが、そのようなガスが発生しているところでは「苦手な人に丁寧に接する」ことは難しいでしょう。そのうえ、その文章を読んで快哉を叫ぶ人がおり(好意的なコメントや「いいね」を押す)、そうした声ばかりが当の人の耳に届きますから、汚い言葉を変えようとはしません(ツイッターやブログごときで心から「諫める」人はいません。汚い言葉で反論・非難する人はいますが、それでは同じ穴の狢です)。快哉を叫ぶ人の言葉もいっそう汚くなります。このような事態は医療の世界だけのことではなく、社会問題や政治問題がらみの世界ではもっとひどいことになっています。そのような言葉を見聞きするたびに、この国の医療や政治の未来について暗澹たる思いに包まれてしまいます。
 閑話休題、今年も武蔵野赤十字病院の新人研修で医療コミュニケーションについてのお話をしました。研修終了後の参加者の感想の中に「日下先生の講義は、今まで学んだ傾聴・IC・共感を更に越えたところにあるものを感じた。これほど他者(患者)を思って、言葉にして行動することは今の自分にはできない」と書いてくれた人がいました(臨床経験のある看護師のようでした)。新人研修だからといって平易な入門話をすることは若い人たちに失礼な気がして、私はいつもある程度経験のある病院職員を対象とする内容の話をしてきました。この感想を書いてくれた人は、「今はできなくとも」私の拙い話の中からなにか自分なりの課題を受け止めてくれたのだと思い、勝手にうれしくなりました。そういえば昨年は「学生時代に『医療の場のコミュニケーション』を読んでいたのだが、その著者の話が聞けた」と書いてくれた人もいました。いつも講演会や講習会は、貴重な出会いの機会です。とはいえ、「面倒くさい」話を聞きとるのがしんどそうな若い人たちが少しずつ増えてきていると感じるこのごろ、来年同じような機会があればもう少し易しい話にしようかと「日和り」つつあるところです。(2019.10)

コミュニケーションのススメ 日下 隼人 コラム

● 本コラムの内容は、著者 日下 隼人の個人的な意見であり、マイインフォームド・コンセントの法人としての考え、および活動に参加しておられる模擬患者さんたちのお考えとは関係ありません。

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