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No.263 京都人の「いけず」

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 私が京都にいたのは1967年の春まで(19歳まで)ですから、人生の大半は東京で過ごしています。父は京都育ちですが仕事に忙しく京都の作法を教えてくれませんでしたし(本人は祇園の深いところにも通じていたらしいのですが、そんなことも私は全く教えてもらえませんでした)、東北地方出身の母も京都の作法を知りませんでした。しかも、母は関東の言葉で私を育てました。つまり、私はたまたま幼少期から高校生までを京都で過ごしただけの人間で、京都人ではないのです。京言葉もうまく話せませんでしたし(その分、東京に来たとき言葉で苦労しなかったのですが)、京都人の機微も身についていません1) 2)
 そのような私でも、母が親戚の女性から「あなたはとても正直で裏表のない人だから、あなたのことが好きだ」と言われたと誇らしげに話すのを聞いた時には、「ひとっつも褒めらていない(悪く言われている)」と思い、ゾッとしてしまいました。少し考えれば、いい年をして「裏表がない」ということは、人に奥行きがなく、「品がない」ということです。それでは人間関係がうまく作れるはずがありません。「あなたが好き」という思いは、態度で表すもので、わざわざ面と向かって言葉でいうものではありません(恋人の場合は別です)。
 遠まわし、逆意、あえてわざわざ面と向かって言う、間接的な非難、オブラートに包んだ皮肉、そして非言語。こうしたことが「悪意」と表現されることもあります(岡本真一郎「悪意の心理学」中公新書2016)。京都人の「いけず」とよく言われますが、そこに込められた含意を読み取ることが「洗練」ということであり、その読み取り方によって「洗練」の度合いが測られているのではないでしょうか(というように言語化すること自体無粋です)。
 そのことは京都に限ったことではなく、多かれ少なかれ日本では同じような構造になっています。含意の読み取れない人は、外部の人とみなされることになります。だから、含意のわからない人と話したくないと思う人は、相手と距離を取るようになります(例の親戚も母とのつきあいを次第に薄めていきました)。
 でも、医療の場ではそうはいきません。自分の命がかかっているのですから、相手が医療者であれ身内であれ、距離をとって避けてはいられませんので、患者さんはやむをえず直接的な言葉で言うことになります。遠まわしに言っても通じなければ、それこそ「正直に」言うことになりますが、受け手からみればやたらに攻撃度が高くなった感じがします。穏やかだと思っていた人が「急に変わってしまった」と戸惑うことになりますが、どうしてそうなったのかは受け手にはわからないままです。含意をあれこれ詮索したり邪推したりすることなく、含意に目配りする姿勢が感じられれば、それだけで患者さんは落ち着くのかもしれません。

 母は、「正直に」の枠を超えて、しばしば相手ときつく言い合ったり相手(私も含む)を詰問することが少なくありませんでした(いかにも京都には合いません)。そんなとき「相手が黙ってしまった」から自分が正しかったとか、相手に本当のことを言わせた(「吐かせた」)と言っていました。最近のツィッターを見ても、けんか腰の議論や「説得」で、相手の人が反論しなくなると「勝った」と思う人が少なくないようなので、母に限ったことではないのかもしれません。ツイッターでも「もう何も反論できなくなるまで、言ってやった」と誇らしげに書き続ける人もいれば、「黙るなんて、卑怯な」とさらに責める人もいます。人の思いがむき出しで書かれていることが多く、まるで社会心理学の参考資料のようです。
 でも、このような議論の過程で黙ってしまう人は多くの場合、納得したわけではありませんし、屈したわけでも自分の「誤り」を認めたわけでもありません。いくら話しても通じない相手だと思ったら、人は黙ります。この人はこんなふうにしか考えられない人なのだとわかったら、黙ります。相手の反応を見て悲しくなったら黙ります。会話が途切れたのは、相手の人に見限られたときなのです。自分が見限られたという視点にはたちにくく、「勝った」というように思いがちです。自分が正しいと思っているかぎりその視点は変わりません。呆れて相手が離れていったことも、相手に問題があると思ってしまいがちです(こうしたことは、たいていの場合、「どっちもどっち」です)。医療者の場合ならば、「問題患者」としか思わなくなります。恋愛の時には、相手が黙ったら「自分が見限られたのではないか」と焦るのですが、こうした場合にはそのように考えないものです。
 病院への「苦情」の投書が減ってくると喜ぶ人がいます。でも、それまでの投書への対応に絶望して、病院の職員の態度に絶望して、「こんな病院に言っても無駄だ」と諦めたために投書が減っている可能性はないでしょうか。それなのに、病院のほうは「やっと分かってくれた」と考えている危険性だってあるのです。(2016.12)

1) 京言葉を話せなかったこと(60年以上前のことなので、関東の言葉にまだふれることがなかった周囲の子どもたちから外国人のように扱われた)、左利きであったこと(小学校で矯正されそうになったが、父が矯正は良くないと学校の指導を「無視」したので、私はずっと左利きのままである)、繰り返し書いてきたことだが中学から大学までずっと劣等生であったことなどが、私の例外者(はみだし)意識と人格とを形成していると思う。自分の周囲の世界に対する「よそよそしい」感じは高校卒業まではずっと続いていて、回避性パーソナリティ障害の要素があるのではないかとも思ったりする。「すくすく」と育っていれば、私のような考えにはならないのではないだろうか (と思うこと自体、「すくすく」育った人のイメージを勝手に作り上げ、勝手に反発しているだけなのだろうとは思うのだが)。だから、私は自分の考えていることや書いていることを「正しい」と主張する自信が全くないし、そんなふうに主張する人が苦手である。
 精神科医の高木俊介氏に神田橋條治氏が「君みたいな健康そうな人がね、なんで精神療法に興味を持つんかねえ。いいんじゃない、あんまり勉強せんでね」と言ったという話を読んでおもわず笑ってしまった。(高木俊介「精神医療の光と影」日本評論社2012)

2) NHK-BSで時々放送される「京都人の密かな愉しみ」では、出演者たちの京ことばのアクセントに違和感はあるけれど、京都らしい言い回しがたくさん出てきて、楽しい。ただ、その京ことばの話され方が時にやや固めの、言うならば楷書体のような感じを受けることに私は少しひっかかっている。京言葉はもっと草書体=「はんなり」したものであるように思う(が、ほんものの京都人でない私の勘違いかもしれない)。テレビのことはともかく、患者さんとの会話も講演も草書体の言葉で話したいと思う。

コミュニケーションのススメ 日下 隼人 コラム

● 本コラムの内容は、著者 日下 隼人の個人的な意見であり、マイインフォームド・コンセントの法人としての考え、および活動に参加しておられる模擬患者さんたちのお考えとは関係ありません。

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