No.239 良い医者?(3)
コラム目次へ 健康の判定は、自分では出来なくなります。いくら「自分は元気だ」と主張しても、それは根拠のない思い込みとしてしか扱われません。それどころか、統計に裏付けられた数字が跋扈する世界ですから、医学的な数値が求められ、それを専門家に判定してもらわなければ自分自身が「安心」できません。平均寿命が伸びれば延びるほど、医者の仕事は増えるばかりで(ほんとうは暇になるはずなのに)、いつまでたっても「医師不足」と言われます。情報化により医療データ集積が圧倒的に容易になり、研究論文の資料整理のために手間暇がかからなくなりました。でも、そこで浮いた時間で医者は患者のところに行くようになったわけではありません。その時間で、もっと別のデータ解析に取り組み(さらなる管理項目探しに取り組み)、その結果人々が健康のために心がけなければならない新たな情報が増え、それに伴い医者の新しい仕事が見つかり、それに企業はまた目を付け、というような循環が起きています。
検査値などの集積されたデータにより、人はマスとして「監視」され、望ましい生き方を導かれます。
健康不安が煽られ、不健康を排除するための「医療という監獄」の中で、医療情報という看守(もう、医師は看守の下働きでしかありません)に見張られて、人は「良い囚人」として振る舞おうとします。そうしているうちに見張られていなくとも、見張られているかのように自己を管理するようになります。同時に、「囚人」同士の相互監視も生まれます。喫煙者を社会から排除するために、喫煙者はみんなから「袋叩き」にあったり「村八分」にされたりします(共存を訴えるのはJTだけです)。この排除や攻撃の武器も、受動喫煙の害やがんなどの発生率などの数字です(魔女狩りのような言いがかりで排除されるわけではありません)。
検査の数値・情報による規範の内面化が進み、それ以外の「規律」は必要なくなってしまいました。「メタボ」や「血液サラサラ」「骨粗鬆症」などの言葉は、日常の雑談(しばしば他人を貶めたり自己卑下する雑談)にもっとも頻繁に出てくるほどに内面化されてしまい、なにげない自己監視・相互監視が進行します。
日々報道される老後の生活不安や高齢化社会をめぐるさまざまの問題や「80を越したら、早く死ななければ」というような言説と併存する形で、人は「健康」に向かって追い立てられることになります。もちろん、「生きたい」と誰もが思いますから、それは「強制」としてではなく、自発的な「願望」として人はすすんで受け容れます。
人は健康という名の抑圧を感じるのではなく、「あるべき健康」(それが社会を構成する骨格になっています)を求めて自発的に「健康的な生き方」の世界に進んで入っていきます。健康は抑圧概念ではなくなり、目標ですらなくなり、もはや疑うことさえ思いつかないこの世界の自明の前提となっています。健康を求めれば求めるほど、異常はより細部にわたって探索されるので、その目標はますます遠ざかり、人は健康のために日々生きることになります。このように考えてみると、北野武が暴力を描く映画を作り、ビートたけしが健康番組の司会をするという構図は、異質なものが共存しているよりは、そこに個人の暴力と社会の暴力とが通底したものとして暗示されていると見るほうが良いのかもしれません。健康に関する情報が不安を生み、医療にたよらずには生きていけないという思いを強化する、それはある種の暴力なのです。インターネットによる情報の増大は、医療者による「知の独占」を排除すると同時に、健康への強迫を強化する両刃の刃です。
予防は個人の責任とされます。「他人の迷惑にならないように」(たとえば予防接種)、「労働力の確保」(「いつまでも元気で」)というような社会防衛的な側面についての言及は避けられ、ひたすら個人の心がけと努力が求められ、それが「あなたの幸せよ」と言われ続けます。そのような福祉・健康管理システムを作る福祉国家が理想的であるかのように思われ、それはイデオロギーを超越した政治であるかのように受け止められがちです (それこそがイデオロギーなのですが) 1)。「個々の国民の健康を確保することは、その国における政治や行政の基本的事項である」(健康づくり振興財団編「健康づくりの広場」)とされたのは1981年ですが、「健康日本21」では「積極的に健康を目指す」とされ、ライフスタイルを管理の対象とすることが謳われています。この「健康」を「治安の維持」や「国防」に置き換えてみても違和感がありません。
健康は管理の道具であるのではなく、社会の仕組みそのものが「健康」という概念を基に組み立てられています。社会の問題が、しばしば医学的な比喩を用いて語られるのもその表れです2)。「健全な社会」「安心・安全な社会」「社会の癌」などと、挙げだせばきりがありません。武力・経済力での管理は見えないところに後退し、健康を目指す自己管理によってこの社会が維持されることになります。M.フーコーの言う「生権力」3)です(船木亨は「生命権力」と言っています)4)。(2016.04 5月に続きます)
1)「このようなナルシシズム(我が身を守るための主体的行動)に応えるのが社会的サービスである。人々をマクロな健康基準に従わせるやり方も強制という形を取ることはほとんどなく、むしろ医療・保健サービスとしてやさしく行われる。それは、医療・保健サービスとして行われるのである。J・マクナイトは『サービスはケアに通じ、ケアは愛に通じる。そして愛は普遍的で、非政治的な価値である』と述べ、サービスの政治的・経済的意図が愛という仮面に隠されてしまうことを指摘している。・・・・愛の仮面が(マクロな健康基準への)強制力を隠してしまうのである。・・・・『あなたの健康を守るのはあなた自身です』というように、常に個人のナルシシズムに訴える形で行われる」(上杉正幸「健康不安の社会学」世界思想社1992 2008に改訂版)。
2)「解放を約束するこの同じテクノロジーが、身体の医療化を経て、治療的支配体制の帰還と化し、従来のどんな社会的・政治的支配形態よりも強力にボディ・ポリティックを掌握することになる・・・。…自由主義的福祉国家においては、消費優先主義や福祉の権利を使って、個人たち自身から服従への同意を引き出すことができるのだから、・・・・。現代社会が徹頭徹尾擬人化しつつあるのは、その社会があからさまな知=権力を持つからではなく、むしろ知=権力が身体化された力としてもっとも効果的に働くからである。知=権力は、われわれが自ら従順な主体となって自分を支配するように操作することで、われわれを支配するのである。」(ジョン・オニール「語りあう身体」紀伊国屋書店2000)
3) M.フーコー「監獄の誕生」新潮社1977
美馬達哉「リスク化される身体」青土社
美馬達哉「生を治める術としての近代医療」現代書館2015
中山元「フーコー 生権力と統治性」河出書房新社2010
「フーコーは・・・『権力のミクロな物理学』を考察・・する。その際に、この権力は三つの次元を通じて働きかけることになる。人間の身体を経由する権力、人間の生命を経由する権力、そして人間の精神を経由する権力である。これらの三つの権力は後に生の権力と呼ばれるものであり、この三つの次元はまた統治性の技術の次元でもある。」(中山)
4) 「医師たちは、病院に来る病人たちに、病気との戦いのために、病人たちの生活スタイルや人生の目標がどのようなものであれ、医師の指示に従った生活をすることを要求します。諸個人の生活の多様性こそ本来は健康と呼ばれるものですが、それは病気が本来の姿で現れることを阻害する要因ですから、これを控除すればするほど理想的な治療が可能になるのです。そして今日では、厚生権力は、公衆衛生学、優生学、遺伝学、大脳生理学等々の知見をとりこみつつ、適用範囲を広げて、いまだ病気でないことごとに「予防医学」の必要性を説きはじめました。・・・臨床医学と厚生行政は、食生活や運動習慣など生活の実質を構成する要素にまで指示を出し、・・・ひとびとの生活を変えさせようとします。・・・すべてのひとを「死に対する戦争」に巻き込んで、生きているあいだのすべてを健康に捧げるようにと、ひとびとを強制するのです。」(船木亨「現代哲学への挑戦」放送大学教材2011)