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No.286 支援臭

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 おなじ貴戸さんの文章の中に「明示的な目的を有する支援者の不在が、参加者にとってポジティブな意味合いを持つ場合は少なくない。実際に、無業の若者支援の現場では、『私はあなたを支援します』と『上から目線』で接する支援者を『あの人は支援臭がする』と揶揄することばがしはしば聞かれる」とありました。
 教育の世界では、「教員臭」1) 2) というものがあります。「明示的な目的を有する教育者の不在が、被教育者にとってポジティブな意味合いを持つ場合」も少なくないのではないでしょうか。少し話してみると、「教員臭がする」と感じさせられる人と出会うことは珍しいことではありません。それは、教師に限ったことではありません。「支援臭」と「教員臭」とはもともと近い関係のものだと思いますが、医学教育者(SPをふくむ)には否応なくその両方が付きまといます。私はどちらの「臭い」も大嫌いなのですが、きっとどちらもふんぷんと発散しているのだろうと思っています。

 先日、ある医療ドラマで「ぼくたちは患者さんの思いに寄り添うことしかできない」という医者の言葉を聞いたとき、「寄り添う」という言葉がとても苦手になっていることに気づきました。「寄り添う」という言葉は、ここ何年かずっと流行りです。なにか良さそうな感じのする言葉ですものね。
 私自身、これまで書いた本でも、この「コミュニケーションのススメ」でもいっぱい使ってきました。No.38からNo.211にかけて、「寄り添う」「寄り添って」「寄り添い」という言葉を45回用いています(そのうち24回はNo.188「寄り添う?」ですが)。でも、最近になるほどあまり肯定的な意味では使っていないはずです。
 「寄り添うことしかできない」と言う人は「寄り添うことはできる」と思っているのではないでしょうか。自分は寄り添って当然の人間である。自分には「その資格」「その力」がある。なぜなら、自分は医療者なのだから。「医療者が寄り添っていくことに忌避感を抱く人がいるはずがない。」「自分が寄り添えば良いことがあるだろう。」なぜなら、自分は医療者なのだから。こんなに患者さんのことを「思っている」のだから。そのような思いが潜んでいないでしょうか。そんな人が寄り添ってくることは、どこかストーカーに通じるところもあるような感じがしてしまいます。「頼みもしないのに」「勝手に」「こちらの了承もなしに」寄り添ってくるとき、支援臭が立ち込めます。
 寄り添ったつもりになれば、なんでもできます。寄り添おうとすることを拒むような人に対しては、さらに「善意」が集中して浴びせられ、地獄への途が広がってしまいそうです。他方で、寄り添うことしかできないと言うことが、医療者の「逃避」にしかなっていないこともあるかもしれません。

 「寄り添う」という言葉を使わなくなった分、私は「支える」という言葉を多く使うようになりました。この「支える」は脇からではなく、下から支える、土台・踏み台になるという意味です。そして、できれば支えていることに気づかれないように支えたい。あるいは、できるだけさりげないバックアップ。もちろん、時には全面的に「抱きかかえる」ことも、「引っ張る」ことも、「涙する」こともあるのですが。
 以前にも引用した島崎敏樹さんの文章ですが「自分の前の方があかるくひらけていると、私たちはこころよい。そして自分を守ってくれるうしろだてが背後にいて、両脇には腹蔵なくつきあえる連れが並んでいると、私たちは安心して生きていける」(「孤独の世界」中公新書1970)。「寄り添う」のは「腹蔵なくつきあえる連れ」であって、医療者の第一義的な役割ではないのです(「たまたま」あるいは「諸般の事情から」医療者が担うことになってしまう場合はあります)。「寄り添う」という言葉は、きっとまずは患者さんから使われるべき言葉なのです、「もっと寄り添ってほしい」というように。
 私はこの先、「患者さんに寄り添って」という言葉を言うことも書くこともなさそうです。(2017.11)

1) 「・・教師という役割には、その前提を不問に付すような圧力が働く。教師という役割は、自らの既成の価値体系を絶対視しやすく、悪を教えられる側に位置づけようとする。そうした傾向に染まる教師は、子どもとのディスコミュニケーションを反省の契機とすることなど思いもつかない・・・。・・・ベイトソンによれば「前提がまちがっていることもありうるのだという観念」を欠いた人間は、「ノウハウしか学ぶことができない。」桐田克利『苦悩の社会学』世界思想社 1993

2) 「そもそも、あの教師という職業につきものの物知りぶった態度の底にあるのは、一種の誇大妄想癖ではなかろうか。道徳的にも、また知識の上でも自分より劣っている人間としばらく接触しているうちに、とかく人は知らず知らずのうちに誇大感情を抱いてしまい、これをおのずから素振りや態度、言葉遣いなどに示してしまうものだ。そして、この感情はたちどころに暴力になって外に現れる。このような感情を損なう行為は、すべてにとりもなおさず自己の権威の冒瀆になるのである。
 自分より劣ったものを前にしての忍耐は、仲間相手の場合よりもはるかにむずかしく、己れにたいして遥かに大きな努力を要するものだ。・・・・とかく人はみずから任じる優越性を、ただそれが面白くてやたらに誇示したがるものだ、などということには一向に気づこうともしない。」E.デュルケム「道徳教育論」講談社学術文庫2010

コミュニケーションのススメ 日下 隼人 コラム

● 本コラムの内容は、著者 日下 隼人の個人的な意見であり、マイインフォームド・コンセントの法人としての考え、および活動に参加しておられる模擬患者さんたちのお考えとは関係ありません。

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