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No.272 努力は報われない

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 「がんばっていれば、いつか報われる。持ち続ければ、夢はかなう。そんなのは幻想だ。たいてい、努力は報われない。たいてい、正義は勝てやしない。たいてい、夢はかなわない。そんなこと、現実の世の中ではよくあることだ。」
 その通りだと思ってここまで読んでいた私ですが、そのあとに続く「けれど、それがどうした?スタートはそこからだ。技術開発は失敗が99%。新しいことをやれば、必ずしくじる。腹が立つ。だから、さあ、きのうまでの自分を超えろ。きのうまでのHondaを超えろ。負けるもんか」(HONDAのCM「負けるもんか」)という言葉にはなじめませんでした。今流行りの言葉で言えば「ブラック」な職場のようですが、それよりも「負けるもんか」というのがどうも・・・。
 私自身、医師としての人生で、時間を惜しんで働くようなことがなかったわけではありませんが(でも、なるべく「ヌルく」生きるようにしてきました)、それを他人に求めようとはまったく思いませんでした。このCMは自分に言い聞かせているだけなのかもしれませんが、どこかで社員全体(読む人全体?)にハッパをかけているようで、「鬱陶しい」。
 「昨日を超える」ことなんて、意図してはできないことの方がきっとずっと多い。気が付いたら超えていた。そして、それはたまたまいろいろな恵まれた要因が重なった幸運と周囲の人の力添えのおかげでしかない(自分の力はほんのわずかしか役立っていない)ということがほとんどです(つい勘違いしてしまいがちですが)。
 「たいてい、努力は報われない。たいてい、正義は勝てやしない。たいてい、夢はかなわない。人生に意味なんか無い。自分の努力を見ていてくれる人などほとんどいない。世界は自分とは関係なく動く」のです 1)。「負けるもんか」という姿勢を持つからこそできることがあるとは思いますが、「誰にも知られなくとも、負けることが分かっている場合でも、どうしても譲れない生き方があるのならば、その途を進む」という人生があると思いますし、そのほうが人生は「楽しい」のかもしれない。「負けるもんか」の対に「勝ってやる」があるとすれば、「勝ってやる」「勝った」という思いは必ず自分の目を曇らせるということを忘れないようにしたい。
 自分が頑張ることでは世の中は何も変わらなくても、自分の努力は虚しく消えてしまうだけだとしても、自分の努力が誰にも知られることがないとしても、それでも、譲れない生き方を選んでいるか。「何度生まれ変わっても、やはりこの生き方を選ぶ」と言えるような生き方をしているかとニーチェは私たちに問いかけています。ハイデガーの「本来性」もここに通じているようです。
 医学教育に関わることも、同じです。教育の成果を私たちはすぐには見ることができないことのほうが多いはずです 2)。こちらの意図とは反対の成果が生まれてしまうことも少なくないかもしれません。それでも「自分が伝えたいことを伝えるように頑張りたい。そのことを誰にも見てもらえなくても、良い」というのが教育に関わる姿勢ではないでしょうか。相手が目に見えて変わることを望むことはきっと「思い上がり」なのです。「教えてあげているのに」と思うと腹が立つことの方がずっと多いけれど、「自分の思いを伝えさせてもらう機会をもらえたのだから」と思えば楽しくなります。
 成果が見えない原因を自分の外だけに求めていては、楽しさは遠ざかるばかりです。教育と関わることで自分が変わる(生きるということについてなにか新しいことを知る)ことができれば、それで十分すぎるのです。医療の場での患者さんとの出会いも、きっと同じです。(言うまでもないことですが、ここで書いたことはすべて私に言い聞かせているだけです。) (2017.05)

1) 病気になり、これからの人生が見えなくなった時、患者さんはこのような思いにとらわれるでしょう。そんな時に「負けるもんか」と自分に言い聞かせることが支えになることはあると思いますが、周囲の人間が簡単にその人に投げかけてよい言葉ではないと思います。

2) 教育には、短期で成果の出る教育と短期では成果が見えない(短期での評価を控えるべき)教育があります。後者は「教える側」には見えない(きっと生きているうちには見ることのできない)遥かな未来に芽が出ることを期待して種を蒔く(伝える)教育です。前者は知識や技能の教育、後者は情意教育というと雑駁にすぎるでしょうか。
 「努力が報われない」ことを覚悟するのは、後者です。だからこそと言うべきでしょうか、前者の教育が流行りです。研修医や若手医師向けのセミナーの案内が私のところにも次々に届きます。「的確に無駄なく速やかに診断をつける」「適切な診療を無駄なく選択する」「新しい診療の形を作る」「現在の診療の問題点を学ぶ」などテーマはさまざまですが、すぐに成果の出そうなセミナー、受ければその直後に何かが身に付いたと感じられそうなセミナーばかりです。若い人たちも喜々として参加しているようです(もしかしたら強迫的に参加しているのかもしれませんが)。コミュニケーションですら「こうすれば必ずうまくいく」と喧伝されがちです。医療倫理さえもそのように語られることがあります。
 「どうしていいかわからない」「簡単に答えを出すべきではない」「答えの出ないことに耐える力をつける」「患者さんの言葉を受けて、診療の方針を変更・調整する」といったところにとどまる力を育てる教育は、する方も楽しくありません。手際よく素敵な料理を作って喝采を浴びるほうが、素材をぐちゃぐちゃにしてわけのわからない調理を見せる(TBS「噂の東京マガジン」の中の「やって!TRY」のように・・・この企画は女性差別ですが)よりもカッコよくて楽しいのです。医学教育全体が「短期で成果が出る教育をしなければ病」に罹っています。コミュニケーション教育でこの病に罹ると、技法に走る人、エビデンスに走る人、逆にコミュニケーション教育の無効宣言をする人などが出てきます。コミュニケーション教育を情意教育と考えると、方法も評価も違うものとなると思うのですが。

コミュニケーションのススメ 日下 隼人 コラム

● 本コラムの内容は、著者 日下 隼人の個人的な意見であり、マイインフォームド・コンセントの法人としての考え、および活動に参加しておられる模擬患者さんたちのお考えとは関係ありません。

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