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No.406 信頼という「賭け」

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 医者は誰でも患者さんと「良い」関係を作りたいと思っています。でも、しばしばそれは医者にとって「都合の良い」関係のことを意味しています。

 「知識を獲得する前提条件として、「この先生(医者)は信頼できる」と感じていたことが重要なのです。そう感じたとき、その知識は初めて真理になる。それで信じられるという気分になる。それがないと、いくら知識を聴いたとしても、信じるというところまで至らないのです」(大澤真幸さんの言葉/熊谷晋一郎『ひとりで苦しまないための 痛みの哲学』所収 青土社2013)。
 患者さんは、医者の白衣を信じるわけではありません。専門用語がいっぱい混じった詳細な説明だけで信じられるわけでもありません。繰り返し合うことで(ザイオンス効果/特定の人物や物事に何度も繰り返し接触することで、好感度や評価が高まっていく心理的傾向)、礼儀正しく丁寧に付き合うことで、患者さんの言うこと(非言語を含む)に十分耳を傾けることで、分かりやすい説明を心がけることで、医療の論理を患者さんの思いより優位に置かないことで、信頼が育まれるとは思います。
 それでも、「信頼は「相手のせいで自分がひどい目にあう」可能性がありながら、にもかかわらずひどい目にあわないほうに賭ける、ということ」1) なしにはあり得ないのです。(伊藤亜紗「信頼の風土」『わたしの身体はままならない』所収 河出書房新社2020)

 患者さんの信頼とは、「この医者に賭けてみよう」という意味での「信頼」です。「えいやっ」と大きなクレーターを飛び越えて決断するしかないのです 2)
 それは、信頼の名に値するでしょうか。長い時間も、深いコミュニケーションもないまま、出会ってからごく短い間に(時には一瞬の間に)状況から「強要」された「薄い信頼」です。
 患者さんが医者を「信頼」するということを、そのようなものとして医者は受け止めているでしょうか。自分が「ひどい目にあう可能性がありながら、にもかかわらずひどい目にあわないほうに賭け」られているということ、しかも患者さんはその結果は自分で引き受けるしかないと覚悟している、そのことに気づいているでしょうか。気づかないまま付き合えば、患者さんを傷つけるしかありません。

 医者のほうは「この患者さんに賭けてみよう」と信頼しているでしょうか。医者が患者のことをそんなふうには信頼していないだろうということは、どの患者さんも見透かしています。そのうえで、だからこそ患者さんは、いろいろ質問したり、医者の勧める治療に躊躇したりすることで、「賭けていることを分かっていますか」と問いかけているのだと思います。

 患者さんからの「薄い信頼」は、医療者の丁寧な付き合いなしには厚みのある“信頼”にはなりません。
 信頼の医療は、医療者が患者さんを信頼する(患者さんからひどい目にあう可能性があるかもしれないけれど、ひどい目にあわないほうに賭ける)ことなしには生まれないのです。この信頼は自分の決断であって、相手の患者さんの反応が自分の「期待」と異なったものであっても「裏切られた」などと言う類のものではありません 3)
 「信頼の医療」は一瞬一瞬生成しすぐに消滅することのくり返しです。「信頼の医療」とはどこかに出来上がっているものでも、いったん出来ればそれが持続するというものでもない、極めて「不安定」なものです。「信頼は制度化できない。制度化した時点で、それは不確実性を失い、信頼そのものではなくなる。」(伊藤亜紗 前掲書)
 医療者の言葉・挙動の一つひとつが掛け金です。医者がこの賭けの「勝率を良くする」方法はあります。患者さんの人生に敬意をもって接し、患者さんの人としての「誇り」を尊重することです。

 それでも、「される側」から「する側」への信頼は、「する側」から「される側」への信頼との間には残酷なほどの非対称な関係があります。患者さんは「命」を掛け金にしているのですから。(2023.06)

1) 「信頼は社会的不確実性が存在しているにもかかわらず、相手の人間性ゆえに、相手が自分に対してひどい行動はとらないだろうと考えることです。これに対して安心は、そもそもそのような社会的不確実性が存在していないと感じることを意味します」山岸俊男『安心社会から信頼社会へ―日本型システムの行方』中公新書1999

2) 哲学者のS.A.クリプキは、言語におけるコミュニケーションは「暗闇の中での命がけの跳躍」だと言います。「相手に意味は届くはずだ」と信頼して、勇気を振り絞ることだと。その「飛び越え」と同じです。

3) これはあくまでも医療者の姿勢のことです。自分がそのような態勢をとっているからといって、患者さんに「覚悟したのだから、どんな結果でも甘んじて受け入れるべきだ」「信頼したのは、そっちの勝手だ」などと言うようなことでないのは、言うまでもありません。


日下 隼人

コミュニケーションのススメ 日下 隼人 コラム

● 本コラムの内容は、著者 日下 隼人の個人的な意見であり、マイインフォームド・コンセントの法人としての考え、および活動に参加しておられる模擬患者さんたちのお考えとは関係ありません。

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