No.277 フレキシリードの「幸せ」
コラム目次へ 犬の散歩に用いるフレキシリードというものがあります。一定の長さまでリード(引き綱)が伸び縮みし、その範囲の中であれば犬は自由に(まるで綱がないかのように)走り回れます。でも、最大限にリードが伸びればそれ以上遠くには行けませんし(「自由じゃなかったんだ」と犬は気づく?)、飼い主が手もとに引き寄せたいと思えばリードを短くして引きもどすことも、もちろんできます。
それでも、伸び縮みしないリードよりは良いのかもしれません。私たちの「享受している」自由というのもそのようなものなのでしょう。風船の中の自由です。風船の大きさに満足出来る人も、そうでない人もいます。だから、テロ防止法案に違和感のない人も、危険だと思う人もいます。他人をどんなに傷つけても良いような自由があるわけではありませんし、どのような状況下でも風船が存在することはやむをえませんが、その風船を、割れないように気を付けながらできるだけ大きくすることが自由と民主主義を守ることなのだと思います(そのような名前の政党があるようですが)。
医療の場で語られる「自己決定権」も、同じようなものです。自己決定というと個人の自由意志が存在しているかのようですし、個人が尊重されているかのようですが、それは「目くらまし」です。
自由意志などというものがそもそもあるのでしょうか。選択は「過去にあったさまざまな、そして数えきれぬほどの要素の影響の総合として・・・あらわれる。それはつまり、過去からの帰結」であり、「意志は後からやってきてその選択に取り憑く」のだとしたら、「過去から地続きであって常に不順である他ない選択が、過去から切断された始まりとみなされる純粋な意思に取り違えられてしまう」(國分功一郎「中動態の世界 意思と責任の考古学」医学書院2017)のだとしたら、私たちは同時にたくさんのフレキシリードにつながれているだけなのです。
「人々が自由であり、自己決定をする主体だということは、一つのフィクションである。だが現在の法は、あるいはそれを含む社会全体はそのフィクションの上に成立しているのであり、またそのフィクションの内部から見ればそれは確かな現実なのである。」(大屋雄裕「自由とは何か」ちくま新書2007) でも、「むしろ、権威的に選択肢がしつらえられることで、自己決定と称される隷属状態はますます深まっていく」(小泉義之「病いの哲学」ちくま新書 2006)のですし、「自己決定権に基づく無制限な自由は、新しい抑圧と支配のレトリックになる危険性を秘めている」(田中朋弘「職業の倫理学」丸善2002)のです。
そして、「自己決定の背後には、本人をふくめた関係者個々人を共犯者として参与させる権力作用が網の目のように張り巡らされている。」(雨宮処凛/川口有美子「死なせないための女子会」現代思想 2013.5 自殺論)
そもそも、「(病気になって)まるごと受け身になることの治療効果はすごく大きい。自己決定・自己責任というのはものすごくストレスフルな経験なんだ・・・。病気でしおれている人間に『賢くなりなさい』『自分で決めなさい』は気の毒・・・。」(内田樹『私の身体は頭がいい』新曜社2003)
「鳥は卵から抜け出ようと戦う。卵は世界だ」(ヘルマン・ヘッセ「デミアン」)。でも、抜け出た外側も、もっと大きな卵の殻に包まれているのがこの世界です。抜け出る試みを無限に続けるのが、生きるということでしょうか。だからと言って、疲れて試みを止めた人を責めたりはしたくない。私たちにできることはその人を「労わる」ことしかありませんし、そのことでしか人は心を通わせられないと思います。(2017.07)