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No.342 共感的羞恥

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 他人の「恥ずかしい」行いを見ていると、自分が当事者であるかのように恥ずかしくなることがあります(共感的羞恥と言うそうです)。
 このところ、子どもが言ったら絶対に叱られそうな「言いわけ」を続ける政治家や官僚の姿を見ていて、私は「おとなとして」恥ずかしさでいっぱいになりました。また、あるマスコミ関係者が自らの起こした強姦事件について、「酩酊状態(この記者は女性がそうなるまで酒を飲ませた)の女性をタクシーに乗せるわけにもいかず、自分が宿泊していた高級ホテルに泊まらせ」「彼女が明らかに性交渉に誘ってきているものと理解した(「吐いたお詫びに性交渉を」と女性が言ったと主張しているという話もある)」という弁解を「もっともらしく」していることにも、恥ずかしくなりました。そこには「知性」も「品格」もありません。この記者が現政権と親しいということには、とても納得できてしまいます(この人を「擁護」し、被害者の女性を非難していた政治屋やライターたちは恥ずかしくないのでしょうか)。
 相手が酩酊状態になる前に呑むことを止める、たとえ酩酊状態になったとしても高級ホテルなのだからその人の介護をホテルマンと相談する、酩酊状態の人からの性交渉の誘いがあったとしても「あなたの(尊厳の)ために、このような状態では止めておこう」と言う、それが人として当たり前のことだと思います。ここにあるのは女性蔑視です。「性被害者が笑いながら話すはずがない」などという言葉は、人間そのものを蔑視しています。言いわけをすることにより相手を重ねて侮辱したり貶めたりしてしまうのはありがちなことです。そのようなとき、言いわけをする側に正当性はないものです。判決後に恥じらいもなく記者会見をしたうえで控訴する姿を見て、「日本の恥」だと思ってしまいました(私は決して国粋主義者ではないつもりですが)。
 政治家もこのマスコミ関係者も、自分の弁解があまりにもひどいものであることはきっと自覚しているでしょう。あまりにも低レベルの言論や弁解が続くと、聞かされる方はばかばかしくて反論する元気がなくなります。その結果生まれるのは、羞恥心を無くしたほうが「勝つ」という「誰にも誇れない」社会です。

 この状況を見ているうちに、それがどこかACPが進められている状況に似ているという気がしてきました。「重い病気」「重い状態」と告げられ「どのような死に方を選ぶか」問われることにより、患者さんはある種の酩酊状態に落ち込みます。その「酔い」はずっと続きます。医療者といろいろ話せるようになって、「ホンネ」らしきことが言えるようになっても、それでも酔いは続いています。そこで、患者さんがためらいながら、おそるおそる発した言葉 1) を、医療者は「明らかに○○を希望しているものと理解」して、「人生会議ノート」の空欄を埋めていきます。あとで「そんなつもりではなかった」と言われても「合意があった」と言い張ることは、透析中止の事例を見てもありうることです。もともと人の「生き死に」について、本人と他人とが合意できるはずがないのです 2) 3)。病気になった人間にできるのは、諦めの上の「妥協」、「負け惜しみ」、「自己慰撫」(「迫い詰められての自分探し」)といったことしかないのではないでしょうか。そうしたことは、他人と「合意」するものではありません。
 このところACPについての講演や勉強会が続々と開催され、その意義について書かれたものもたくさん目にするようになりました 4) 5)。多くの病院では「人生会議」ノートが作成されだしています。話したり書いたりしている人の多くは、これまでの医療の在り方に問題を感じ、患者さんに誠実に向き合おうとしている人たちです。こちらのほうは「知性」も「品性」もあります。それでも、それを見聞きするとき、私が何か気恥ずかしい思いをしてしまっていたのには、こうした事情があるのではないかと思い至りました。そして、その「誠実さ」が経済効率や優生思想と地続きなことが怖い。(2020.02)

1) 記号論は、言葉の不確実性、言葉と心のずれから生まれているような気がしている(ソシュールやクリスティヴァ、イェルムスレウといった人の書物の表層を少し齧っただけで、こんなふうに書いて良いはずはないのだが)。日常的にみれば、語用論。こうした「ずれ」は日常生活でだれもが感じており、それを踏まえて日々他人と関わっているのに、「患者の希望」というときだけ患者さんの言葉が文字通りに受け止められてしまうのはなぜなのだろう。
 「言葉の本質が、意味の伝達という実用性にあるのではなく、自分の感情の気持ちの表現という別の側面にあることを・・・・。」加藤典洋『言葉の降る日』岩波書店2016
 「言語について真に知ろうとすれば・・・言葉が通じ合わないでまどろこしいさまざまな場面について、あるいは思考を言葉でうまく表現できないことでもどかしいさまざまな場面について、言葉の上だけでしか成り立たないむなしい議論がおこなわれるさまざまな場面についてこそ考察しなければならない。」船木亨『いかにして思考すべきか』勁草書房2017

2) 〈“豊かな終わり”を見つめて 医師・徳永進さんの思い〉NHKハートネット2019.4.22から
 徳永さんが命の本質とは何かを感じたという出来事がありました。それは、ある末期の胆のうがんの男性が徳永さんのもとを訪れたときのこと。その男性は死を受容したけれど、家で最期を遂げたいと話していました。しかし、徐々に身体が弱っていったあるとき、その男性は、徳永さんに土下座しながらこう告げました。「この場になってお恥ずかしゅうござんすが、わし、生きとうござんす」。男性の「本物の言葉」を聞いた徳永さんは、衝撃を受けました。「私は動けなかった。『生きとうござんす』というその言葉が、本物の言葉ですから。だから、逆に、こっちが『頑張りましょう』という形になって。そのときに教えられたのは、命というのは、根本的に生きようとする。夕顔の種をまくとつるがいろんな障害物を越えて上へ行きます。光に向かっていくので向光性というんですけど、その方がおっしゃったのもそれに近いものだと。最後、そのつるはどうなっていくかというと、最終的には地に落ちるんですけど、私は、みんなが1粒の夕顔の種を持っているというようなのがわかりやすいと思って。その種は生きようとするのが根本的な姿勢です。でも、最終的には地に向かう能力も持っていると思っていて。真反対こそ臨床の真実味があって、いろんな真反対がいろんな形である、そこが現場というか臨床というか人生というか、ああいうものの値打ちだろうな。私たちはどっちか1つにしたがるんですが、そんなことがあるわけはない」

3) 「向光性」をもつ命に「光」を届けない医療は、その名に値するのだろうか。「『死ぬ覚悟』を迫ることが患者や家族を苦しめることがある」佐々木常雄 日刊ゲンダイヘルスケア 2019.3.6
 日本国憲法第97条には「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は,人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて,これらの権利は,過去幾多の試錬に堪へ,現在及び将来の国民に対し,侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」と書かれているのだが、自民党の憲法草案では全文削除されている。そのような状況の下で「死ぬ権利」などが語られてよいとは思えない。

4) ACPに限らず医療倫理について語られるとき、「患者さんとどう関わるか」「どのように対応すればよいか」ばかりが語られていて、患者さんと関わる医療者はどうあるべきかについて語られていないことがいつも気にかかる。問われるべきは、患者さんと信頼関係を作ろうとする医療者の関わり方、そして生き方そのものである。患者さんは、信頼して良いかわからない医療者と自分の生死に関わることを話せるはずがない。白衣を着ている人は信じられて当然というわけではない。白衣に支えられた付き合い(専門性)と白衣を脱いだ人としての付き合い(普通の暮らしの感覚)の両方が必要なのだ。自分がこの患者さんと死について話す資格があるか自分に問い続け、関りを考え続けることこそが医療倫理である。そのように自問していない医療者を信じようとはだれも思わない。その努力がないところでのACPはすべて「いじめ」だと思う。信頼関係があれば、どのように生きたいか、どのように死にたいかを人は自然に話し出すだろう(そうなれば書類など必要ないかもしれない)。
 「対話への拘束以外には、探究に課せられている拘束は一切存在しない。・・・大切なのは、事物を正しく把握するという希望ではなく、暗闇を背に互いに身をすりよせながら生きている同胞たちへの誠実さである」C.ローティ(『プラグマティズムの帰結』筑摩書房2014)
 「『理解』はついに『信』に及ばない。『信』ぬきで理解しようとすると、かならず関係を損ない、相手を破壊する」(中井久夫(『看護のための精神医学』医学書院2004)
 「ノディングスは、公平性と普遍性に則った従来の倫理は個別の人間関係のなかで生きている人間の現実から離れている。相互的な人間関係のなかで相手のニーズを察して、それに応答していくケアリングこそが人間本来のあり方であり、道徳や倫理の基礎なのである。ケアの立場に立てば、道徳的問題は、それが発生する人間関係の個別性に注目して対処しなければならない。人のケアリングとケアしケアされた記憶が、倫理的な応答の基礎をなすのだ。」(河野哲也『善意は実在するか』講談社 2007)

5) あることについて多くのことが語られるのは、そのことが「普通の暮らしの感覚」とずれているからであり、語る方に「やましさ」「躊躇」があるからではないだろうか。理由がいっぱいある(あげなければならない)のは無いのと同じだと言う人もいる。ずれの修正は、「普通の暮らしの感覚」を引き剥がすことによって行われるべきことではない。「やっぱり死にたくない。死ななきゃ、とにかく楽しいことはありますから。絶対それを経験したほうがいい。生きてりゃあ、どっかで楽しいことはありますよ。辛いことのほうが多いと言う人もいるかもしれないけど、なんだろうな……とにかく悪いことばっかじゃない、と思います。」(蛭子能収)


日下 隼人

コミュニケーションのススメ 日下 隼人 コラム

● 本コラムの内容は、著者 日下 隼人の個人的な意見であり、マイインフォームド・コンセントの法人としての考え、および活動に参加しておられる模擬患者さんたちのお考えとは関係ありません。

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