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No.396 患者さんの心に希望を灯してこそ

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 インフォームド・コンセントもACPも、患者さんの「理解」とは関係なく患者さんに迫ってきます。
 医療コミュニケーションは素人である患者さんにわかりやすい説明を心がける技法に尽きるものではありませんし、インフォームド・コンセントは医者の説明する診療方針について患者さんが従うことではありません。インフォームド・コンセントのために、患者さんに医学的な説明を過不足なくわかってもらえるよう知識を伝えればよいということではありません 1)
 患者さんが『「脳コワさん」支援ガイド』で書かれているような状態に在ることへの心配りがなければ、どんなに丁寧な説明も心に沁みるものとはなりえないのです。「時間がない」と医者は言いがちですが、無いのは人の心についての「知識」と「配慮」です。非対称な関係でのコミュニケーションなのだということを医者は自覚していないわけではありません。むしろ、そのことに甘えて、一方的に患者さんに話しています。
 インフォームド・コンセントは患者さんと医療者との間に信頼関係を育むために必須のものです。インフォームド・コンセントのための話し合いを進めていく過程そのものが信頼関係を育みます(壊す危険と背中合わせです)。インフォームド・コンセントとは、最終的な合意のことであるよりは、話し合う過程の中に息づくものだと思います。信頼関係がないところでは、それは患者を攻撃する武器にしかなりません。ACPでは、そのことがもっとあからさまです。
 先の戦争でシベリアに2年あまり抑留された老人は、「未来がまったく見えないとき、人間にとって何がいちばん大切か」と息子に問われたとき「希望だ。それがあれば、人間は生きていける」と答えました(小熊英二『生きて帰ってきた男』岩波新書2015)。この文章を読んだとき、私は「患者さんの心に希望を灯してこそのインフォームド・コンセントだ」とあらためて思い至り、自分がコミュニケーションにこだわってきたのはこういうことだったのだと腑に落ちました。重い病気であればあるほど「希望がなければ人間は生きていけない」のです。インフォームド・コンセントは、患者さんが自分の未来について「希望」「(その人の前に広がる)あかるさ」を持つことができ、「自分を支えてくれる人がここに居る」「自分の人生はよいものだった」という実感を手に入れるためにあるのだと思います。日本中の病院でインフォームド・コンセントがそのようなものになるまでは、この国で「インフォームド・コンセントが定着した」とは言いたくないと思っています。ACPは、重い病気になった人や高齢者の「希望を小さくする」ものになっていないでしょうか。(2022.08)

1) 「そこでの素人は、『専門家ではない者』という否定的定義以外の位置づけを、生活世界における公共的コミュニケーションにおいて与えられていないのではないだろうか。」「科学者は『説明する人』であり、素人はそれを聞く人であるという立場上の不均衡がある。・・・・今度は『知らしむべし、而して依らしむべし』という方向が明白である。そこでは、素人の『感情的』発言は、専門家によって『治療』されるべき症状の開陳でしかない。・・・ここでの問題は、素人の学習や専門家による『啓蒙』によって解消されるような性質のものだけとはいえないという点にこそ存在しているのである。」「『素人』の感情的表現を討議の中に組みこめるような命題へと『翻訳』したとき、そこにある種の意味の変容が発生することは『翻訳』というものの性質上、或る意味では必然的である。・・・・『翻訳』の必要性が云々されるということは、『素人』の感情表出を、そのままに(そして真面目に)カウントすることのできるコミュニケーションのシステムを、われわれが今のところは持っていないことを意味している・・・。」水谷雅彦『共に在ること 会話と社交の倫理学』岩波書店2022


日下 隼人

コミュニケーションのススメ 日下 隼人 コラム

● 本コラムの内容は、著者 日下 隼人の個人的な意見であり、マイインフォームド・コンセントの法人としての考え、および活動に参加しておられる模擬患者さんたちのお考えとは関係ありません。

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