No.296 アマチュア
コラム目次へ せんだって「畑尾先生に感謝する会」が開かれ、多くの人がお人柄を懐かしみました。その準備の過程で「畑尾先生は医学教育に身を捧げられた」という言葉を目にした時、優れた外科医だった先生はどこへ行ってしまったのだろうと私は少し戸惑いました。畑尾先生は、きっと医学教育だけにその身を捧げられたわけではなく、「もっと広い世界を生きておられたのに」と思ってしまいました。
「医学教育専門家」という名称が最近できました。でも「医学教育に身を捧げている医学教育専門家」(という人がもし現実にいるとしたら、ですが)から教育を受けることになったら、これまでの人生でなにごとも「アマチュア」としてしか生きてこなかった私は、きっとその人を敬遠してしまうでしょう。なにごとについてもアマチュアでしかありえなかった私には、自分の身を捧げる対象は自分の人生しかありませんでした。自分以外のなにかに「身を捧げる」などと思ってしまうと、つい自分が立派なことをしていると錯覚してしまいがちです。
「人は、自分が正しく相手が悪いと信じているとき、悪いものを正すために、『ひどい』ことを『ひどい』という自覚なしに行ってしまう。同様に相手が異質な存在、劣った存在などと感じたときにも、『ひどい』ことを『ひどい』という自覚なしに行ってしまいやすい。」(青木省三「こころの病を診るということ」医学書院2017) この言葉を心にとどめるべきは、医療者だけではないと思います。
学生時代、私はベトナム戦争に反対する市民運動に参加し(ベ平連 1))、その延長線上で大学の全共闘運動に参加しました。私は政治活動のプロとは無縁の市民、政治党派とは無縁の「ノンセクト」2) の立場で活動を続けてきました。「政治」のプロにはどうしてもなじめませんでした。
あのころ私は、「非国民」という言葉によって人が責められる時代がまた来たら、できるだけ「非国民」と言われる考え方を選ぼうと思っていました(今でもそう思っています)。実際に、暴力を伴って「非国民」と言われることにどこまで耐えられるかは全く自信がありませんが、国家の論理に完全に呑み込まれる人生は魅力的ではありませんし、国家というものを背にした多数派(「非」のつかない国民)の位置に留まってそうでない人を非難するような人間にはなりたくない 3)。「非国民」と言われるような生き方を貫く人だけが持ちうる「人間の誇り」を大切にしたい 4)。私はプロの国民にはなりたくないのです。
医者になっても、私は医者の世界の標準的なコース=プロの道をひたすら避けてきました。博士号は取りませんでしたし、医学教育以外の学会発表も論文もありませんでした(医学部闘争の時に博士号ボイコットの運動を支持し、その後も学会批判をしていたのですから当然です)。大学の人事に乗らず、勝手に武蔵野赤十字病院への就職を決め、大学を辞めてしまいました(その後長い間「脱藩者」扱いでした) 5)。それゆえ、自分の生き方を若い人たちが範にしてくれるとは思いませんでしたし、そのような生き方を勧めるつもりもありませんでした(そのような生き方を選ぶ人と出会った時には嬉しくなってはいますが)。キャリアプランなどという言葉は、遠い世界のことのようにしか感じられません。偶然や「行き当たりばったり」の人生の実りも大きいのにと思ってしまいます。私は医者としてもアマチュアでしたし、その当然の帰結として医学教育の世界でもアマチュアでした。
アマチュアに留まり続けたことが私の現在の考えを形成していることは確かですが、プロにならなかったための歪みを抱えていることを忘れないようにしたい。(2018.04)
1) 「ベトナムに平和を!」市民連合のこと。市民運動に参加することで鶴見俊輔さんや小林トミさん(画家、「声なき声の会」代表)、渡辺一衛さん(物理学者・哲学者、当時私の在学した医科歯科大学教養部教授)と出会い、その人たちから学んだことがわたしの今日に至る思考の基礎にあります。
2) 当時日本中の大学に作られた全共闘=全学共闘会議はそれぞれの大学の課題について、党派にもその論理にも囚われない個人がそれぞれの思いで活動に参加する組織でした。先日、精神科医の齋藤環「承認をめぐる病」(ちくま文庫)の中で、全共闘と連合赤軍とが混同して書かれているのを読んで(私は、この両者は正反対のものであると思っている)、あらためて時の流れを感じると同時に、歴史を伝えてこれなかった私たち世代の怠慢も痛感しました。私は「戦争で死にたくない」「戦争で人を殺したくない」と思ってベトナム反戦運動に参加しましたので暴力的な運動には関わりたくありませんでしたし、赤軍派の人の話を聞いたことがありますが「自分たちとは別世界の人たちだ」と感じるばかりでした。
学生運動が盛り上がっていた時には、私は一番端っこにいる活動家でした(真ん中にいたのは「プロ」の人たちでしたから)。でも、浅間山荘事件の後ほとんどの人が運動との関わりをやめてしまったのを見て「ここで運動が全くなくなってしまったら、これまでの全てが無になってしまう」と私は思い、それまでと同じペースで少数の人たちと、卒業まで活動を続けました(国家試験の前日にベトナム反戦デモに行っていました)。その結果、自分では立ち位置が変わっていないのに、私はとても目立つ存在になっていました。1969年に京都国際会館で開かれた「反戦と変革に関する国際会議」の記録には医科歯科大学ベ平連の代表として私の名前が載っていますが、当時活動していたのは私一人でした。私は「一人」「少数者」「異端」のポジションが肌に合うのでしょう(ただの「変わり者」だということです)。
3) 「誇りの中でも最も安っぽいのは民族的な誇りである。・・・民族的な誇りのこびりついた人間には、誇るに足る個人の特性が不足している・・・・。個人の特性が不足していなければ、何もわざわざ自分を含めた幾百万の人間が共通に具えている要素に訴えるはずがないからである。立派な個人的長所を具えた人は、自国民の欠点を常日ごろ見せつけられているのだから、この欠点をこそ最もよく認識するわけであろう。ところが何一つ誇りとすべきもののない憐れむべき愚者は、たまたま自分の属する民族を誇りとするという最後の手段を命の綱と頼むのである。これによって息を吹き返し、随喜感激して、自国民に具わる欠点や愚かさを何から何まで力のかぎり根かぎり弁護しようとする。」(ショーペンハウエル「幸福について」) 「民族」を「自分の属する集団」と読み替えることも可能です。
4) 病者とは、健康でない人=世の中の少数派の位置に押し込められた存在であり、多数派の論理に抗してでもその人間の誇りを尊重することが医療なのだと私は考えてます。
5) でも、大学とのつきあいは専攻生―非常勤講師―臨床教授と、その後ずっと続いてしまいました。他大学の関連病院であった武蔵野赤十字病院を母校の関連病院へと変えることにはいささかのお手伝いをしました。このアンビバレントな行動を矛盾なく説明することは、まだうまくできていません。