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No.282 言葉の中の棘

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 「どちらがお姉ちゃん?」と尋ねられるたびに傷ついていたという双生児の妹の話を聞きました。このお嬢さんは発達障害のためにそのつどパニックになっていたのですが、ずいぶん長い間母親にもパニックになる理由がわからなかったそうです。「どちらがお姉ちゃん」か分かってもおつきあいが変わるわけではありませんから、尋ねる方はただの「挨拶」のつもりです。ただの「善意に満ちた」挨拶にさえも、人を傷つける棘はいっぱい潜んでいるのです。
 健診の場では、その子どもと会話をすることが診察の一部になります。3歳児健診では「幼稚園は楽しい?」「お友達はいっぱいできた?」などと私も尋ねがちなのですが、その質問に傷ついてしまう人もいるはずです。幼稚園は楽しいはずのものであり、友達はいっぱいできるはずのものだという前提がそこにはあり、それは十分に抑圧的なものなのです。
 ある価値観を、この社会での「勝ち組」とされる医者が言うことは、人の生きることの管理につながっています。生管理は、このような年齢から、このようにして人を縛っていきます。そして、「死に方」まで縛られようとしています。
 「勝ち組」の人は、「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ徳器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ(父母に孝行をつくし、兄弟姉妹仲良くし、夫婦互いに睦み合い、朋友(ほうゆう)互いに信義をもって交わり、へりくだって気随気儘(きずいきまま)の振る舞いをせず、人々に対して慈愛を及ぼすようにし、学問を修め業務を習って知識才能を養い、善良有為の人物となり、進んで公共の利益を広め世のためになる仕事をおこし)」という言葉に違和感がないのかもしれません。だから「良いことも書いてある」と言う人が出てくるのでしょうが、「虐待」を受けている人に「父母に孝に」と言えるでしょうか。 政治家などは、教育勅語に書かれたことの正反対のことばかりしているようです。
 「自分の親ならどうしたいかと思って、患者さんと接する」と学生を指導した教員のことは前にも書きましたが、そのような「幸せな親子関係」を誰もが築いているわけではありません。「自分の親なら、早く死んでほしい」という学生がいたら、この教員はどうするのでしょう。
 耳当たりの良さそうな言葉によって切り捨てられ否定されてしまう「世界」の中にいる人こそ、それゆえに、つらい思いをしているのです。「あたりまえ(のはず)」「こうあるべき」とされる枠から「はみ出さざるをえなくなった」人のことをまず考えることができなければ、ケアはできないのではないでしょうか。そもそも医療の場でのコミュニケーションでは欠かせないはずです。小学生の時に2度不登校の日々を過ごした私の僻みかもしれませんが。
 そういえば、健診の最後に、「なにか困っていることはありますか」と尋ねる医師と「ほかになにかお聞きになりたいことがありますか」と尋ねる医師がいることに気づきました。尋ね方ひとつで、質問の閾値が変わります。情況によっては閾値を上げるほうが良いこともありますので、どちらが良いということではありませんが。(2017.10)

コミュニケーションのススメ 日下 隼人 コラム

● 本コラムの内容は、著者 日下 隼人の個人的な意見であり、マイインフォームド・コンセントの法人としての考え、および活動に参加しておられる模擬患者さんたちのお考えとは関係ありません。

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