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No.270 患者さんを驚かせたい

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 あるツイッターに、「今日は、ろう友達と、ディズニーランドで遊んできました。で、デイジーにお会いしてきたのですけれど。私達が手話をしているのをみて、『会えて嬉しいわ!』『ありがとう!』『また、お会いしましょう!』と、手話してくれました!今年、一番の幸せな出来事でした!!!」とありました。
 病院の人は手話ができなければ、と言っているわけではありません。でも、「こんなふうにあいさつしてくれるんだ!!」と「驚いて」もらえれば、挨拶には無限の力があります。「おはようございます。今日は暖かいですね」のように、あいさつに一言を添えると挨拶はぐっと豊かなものになります。やわらかいことばで、ゆっくりていねいに、相手の人の顔を見て、少し微笑んで言うと、温かさが増します。
 ホスピタリティの感じられる接遇はあいさつができればそれだけでも十分だと私は思います。OSCE10年の成果が「あいさつできるようになっただけ」でしかないとしても、それは素晴らしいことなのです。患者さんは病院にいる間、ずっと「地獄」にいるような気がしています。医療者のほっとする一言・温かく感じられる一言は、まさに「地獄で仏」です。
 医療者なのに「こんな挨拶をしてくれるんだ」「こんな丁寧な言葉で話してくれるんだ」「黙って話を聴いてくれるんだ」「わかりやすいようにと、頑張って言葉を選んで話してくれるんだ」「こちらを気遣う言葉をかけてくれるんだ」「この前のことを覚えてくれていたんだ」と、医療者の態度に意外さを感じてもらえたら、そこから関係が深まります。
 その医療者は仏(=自分の味方)だという印象が、そのあとずっと続きます 1)。そう感じた患者さんはその医療者に好意的に接してくれますし、その医療者の言うことを好意的に受け取ってくれます。好意を抱いてくれていると感じた医療者は、もうその患者さんにそっけなくすることはできなくなります。
 そこからは、患者さんがハンドルをきり医療者が駆動するような関係が生まれるはずです。好意を抱いている相手に、人はとんでもないことや無理難題を言うことはめったにありませんので、患者さんがハンドルを握っても大丈夫です。たとえその後のつきあいの中で行き違いがあったり、診療に医療事故があったりしても、その修復は可能です。出会いのはじめの瞬間にすべてがかかっているのです。
 はじめの出会いで「地獄にいるのは、やっぱり鬼だ」という印象を抱かれてしまうと、その後どのように誠意をもってつきあっても、関係がかえってこじれてしまうことも少なくありません。そこから「ほんとうは仏だったんだ」と思ってもらえるようになると信頼感はとても深くなると言われますが、そのためには多大なエネルギーが要りますので、関係修復を途中でやめてしまう人の方が多いでしょう。
 あいさつだけでも十分だとは思いますが、それ以外に、「お礼」と「お詫び」がきちんとできればなお良いと思います。この3つがちゃんとできる人は信頼されます。つまり、幼児期にしつけられたことができればそれでよいのですし、幼児期に身につけているはずのことができない人は、だからこそ信頼されません。

 せんだってある病院の指導医養成講習会で、参加していた年配の医師が「どのグループでも、医師に求められる基本的臨床能力としてコミュニケーションをあげている人がとても多いことに感心した。自分たちの若いころはこのような教育を全くされていなかったので、時代の変化を感じた」と言っておられました。その方の卒業された大学は、設立の意図からして患者さんや地域との関わりを大切にしている大学だと思っていましたので、その言葉に私は意外な感じを受けてしまいました。
 意識の変化を促すのはいつも社会の状況であって、教育の果たす役割は大きくはないと思いますが、それでもこの20年余り医学部でコミュニケーション教育が行われてきたことは成果をあげていると思います。基本的臨床能力としてコミュニケーションをあげた人は、たとえ現在その人のコミュニケーションに問題があっても、そのことを指摘すれば聞き取るreceptorを持っています。そのような人に「できていない」「どうしてできないのか」「昔、習ったはずなのに」というような言葉を投げかけることは、残っているreceptorを閉じさせてしまうことにしかなりません。
 44年前私が医者になったころには、医者から見れば「不適切な」対応を子供にしている母親に向かって「親として失格だ」と言ってしまうような医者はまだ少なくありませんでした。乳幼児検診では「・・・ができていないからだめだ」という言葉が浴びせられていました。「薬をあげるから、呑んでおいて」しか言わない医者も普通でした。
 私は悪性腫瘍の子どもの両親に、診断がつくとすぐ病名・病気の性質・予想される予後などを話していました。それがあたりまえだと思っていた後輩が、別の病院(日本を代表する大病院です)でそのことを話したら、ある医師に「母親に(白血病という)病名を伝えて、何か良いことがありますか」と言われたということを、その医師が教えてくれました。
 今日では患者を叱りまくる医者は絶滅危惧種になりましたし、乳幼児健診は両親を応援するためのものになりました。私自身44年前、患者さんにきちんと挨拶していたか記憶があいまいで心もとないのですが、今日では、若い医師はみんなしっかり挨拶していますし、自己紹介もします。そのことを中年の医師は不思議がり、看護師は感心しています。
 現在の状況を見ていると、正直なところわずか40年でよくここまで変わったなという気がします。25年前に医学教育と関わりだしたころ、私はもっともっと時間がかかるだろうと「覚悟」していました。とはいえ、変化は「二歩進んで一歩下がる」というようなことが少なくありません。「一歩下がった」ところを論うよりは「一歩進んだところ」を褒めるほうが、きっと良い医者が育ちます。地球の地殻変動のように、医療の地殻はゆっくりであっても確実に、時には大地震を引き起こすほどの強さで動いているのでしょう。私たちには見られない未来がきっと良くなるという信がなければ、教育に関わることは苦痛でしかありません。教育に関わるということはオプティミストになるということなのです 2)
 「悲観主義は気分のものであり、楽観主義は意志のものである。」(アラン「幸福論」) (2017.04)

1) 見方を変えれば、医療者の仕事は「人の弱みに付け込んで」成り立っており、そのおかげで医療者はずいぶん「楽」をしているはずです。「あいさつさえできれば良い」というのは、そういうことでもあるのです。
 No.151で「接遇もロクにできないオジサンオバサン医師が、患者との対話の中で感動的な行動を見せることがしばしばあります。ひどい言葉を使いながらも、その医師が患者と真に向き合い、診療に関する自分の意図を話している光景、患者の意図を読み取ろうとしている光景を見て、研修医も『ああいう医師になりたい!』と、グッとくるわけです」というあるブログの言葉を紹介しましたが、やはり私には違和感があります。ここで書かれている「感動」は、あくまでも「真に向き合っている」つもりの、「する側」のものです。ちょっと考えればわかることですが、相手の人に「真に向き合っている」時、人は「ひどい言葉」を使えなくなります。「ひどい言葉」を聞いたとき、「真に向き合ってもらっていない」と感じて、その医者との関係を絶ってしまった人のことは医者から見えなくなっているだけです。一方、それでも「医者なのだから」「医者はこんなものなのだから」と思い、なんとか主治医を信じてみたいと「努力」して、医者を「許し」感謝してくれる人が一定数居ます。でも、それはこちらが「人の弱みにつけ込んで」いるために生じているのです。そして、「丁寧な言葉」を使っていれば、もっと別の豊かな世界が広がっていたに違いありませんし、研修医が「なりたい」と思う姿ももっと魅力的なものになっていたはずです。

2) 楽観主義は成長至上主義ではありません。人口減少にむけたソフトランディングを丁寧に考えるほうが楽観主義だと思います。

コミュニケーションのススメ 日下 隼人 コラム

● 本コラムの内容は、著者 日下 隼人の個人的な意見であり、マイインフォームド・コンセントの法人としての考え、および活動に参加しておられる模擬患者さんたちのお考えとは関係ありません。

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