No.302 死に方を選ぶ?(3)
コラム目次へ 「延命治療 僕は要らない」(鎌田實・日刊スポーツ)という選択は可能な限り尊重されるべきですが(そうなった時の状況や周囲の反応によって、実際のところはどうなるかわからないけれど)、それはどこまでも個人の好み以上のものではなく、それが正義だというわけではありません。
1980年ころから徳永進は「心温まる」ターミナル・ケアの実践例を書き続けており、多くの医師からも同じような実践記録がこのところ次々に報告されています。しかし、文章にまとめることができたような「うまくいった」事例ばかりではありませんし、誰もが「恵まれた条件」にあるわけではありません。そして、医療者の善意も、先進的・良心的な医療の試みも、医療への異議申し立ても、たちまちシステムに取り込まれ、その維持管理の道具にされてしまうのが生管理社会です。そこでは「いのち」を口実に管理が進行し、「いのち」が人質に取られているだけに抗いがたく、「穏やかな死」というような言葉によって死の形さえ強要されていきます 1)。
鎌田實が「良い死に方」を選んだ人の例として日野原重明氏を挙げていることには、「わかりやすく」という思いがあったとしても、いろいろな意味で違和感がありました。(啓蒙的な)言葉を語ることのできるような人は、簡単に「切り捨て」られることなく、その意思が尊重されるでしょう。だが、このように語ることのできる人と、自前の言葉を紡ぐことができず「優先的に」棄民されてしまいかねない人との間には大きな溝があり、その溝をつくってきたのも医療者です。人に生き方を「教示」するような言葉を持つことは、すでに「権力」です 2) 3)。医者だからシロウトよりは目配りができるのであって、目配りの困難な「ふつうの」人にとっては、こうした言葉は選択というより「押しつけ」となります。
「ね、在宅のほうが素敵な死に方でしょう」という言葉は、住まいや家族の状況のために在宅医療が受けられない人、家族の介助を受けられない(「家族は介護することが当然だ」とか「家族の介護が幸せだ」という立場を私は絶対に取らない。家族の居ない人もいっぱいいる)人を、その意図がなくとも「惨めな」位置に貶めてしまいます 4) 5)。もちろん病状にも依ります。私は「良い患者」「悪い患者」という区別をつけたくありませんし、生き方にも死に方にも優劣や尊厳の有無をつけたくありません。
患者さんも家族も迷い悩むのです(最終段階に限ったことではありません)。その人たちに対して、「ね、このほうが素敵な死に方でしょう」という言葉が押し寄せてくることは、患者や家族を一つの方向に押しやる圧力として強くはたらきます。「話し合い」の場で、人はタテマエやカッコつけたりしたことを言ってしまいがちですし、医療者の「圧力」を感じたらそれに応えようとしがちです。医療者の「期待」に沿った言葉を聞いたときの医療者に見られるかすかな「安堵」を患者さんは必ず感じ取ります。「生権力」は「やさしく」真綿で締め付けてくるのです。「自宅で良い最期を迎えることができた」と感謝する家族の心の中にも、「言葉に表しきれない複雑な思い」「表明することのなかった葛藤」、「在宅で過ごした時の不安」などが息づいているはずだということ、感謝の意を言うことで言う人自身が慰撫されているだろうということを、見失わないようにしたい。
患者さんが「優等生的な」選択をし、その「思い」が整然とした言葉にまとめられるとき、患者さんの心に渦巻き続けている怒りや不安、「心に奥深くひそんでいた破壊的なもの、原始的なもの(神谷美恵子)」はますます患者さんの心の奥に押しこめられてしまうしかないでしょう。
インフォームド・コンセントの目的は、患者さんにこれからの(残された)人生への「希望」を提供し、その人生を「明るく」することだと私は思うようになりました(No.256)。この希望は、良くなる見込みが99%ないような場合でも、「1%の望みに賭けて見ましょう」「一か八かですが」というようなことではなく、それでもその99%の結末に至る途になにかの希望を患者さんと医療者とが一緒に見つけ出していくということです。あるいは、一緒にいること自体が希望になるようにつきあうことです。
「本当に良い洋服は着る人に品格と誇りを与えてくれる。人は品格と誇りを持ててはじめて、夢や希望を持てるようになる」(連続テレビ小説「カーネーション」23回 根岸先生の言葉) この言葉に従えば、インフォームド・コンセントは、患者さんの「品格と誇り」を大切にすることなしにはあり得ないのです。患者さんと医療者とが話し合うのはそのためなのではないでしょうか。(2018.07)
1) 人間として生きる市民権が法的に剥奪されたヒトは、その結果医療を手控えることばかりか死へ廃棄することも法的に社会から許されてしまうとG.アガンベンは言います(「ホモ・サケル(聖なる人)」)。人の死を「脳死」に置き換えたときから、その流れは脳死患者から高齢者、障害者・・・と次第に広げられつつあり、そのことへの歯止めはありません。「日本の高齢者が、若者を養分にして生きながらえることに罪悪感を持っていない」という「思想」は、そのようにツイッターで語る若者自身をいつでも「ホモ・サケル」にすることができるのです。少なくとも、その若者自身、いつかこの言葉を投げかけられることになるでしょう。「今、あなたが価値がないと切り捨てたものは、この先あなたが向かっていく未来でもあるのよ。自分がバカにしていたものに自分がなる。・・・自分に呪いをかけないで。そんな恐ろしい呪いからはさっさと逃げてしまいなさい」(テレビドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」最終回 百合の言葉 再掲)
2) 「良い老い」を他人に語る人とは、語れるような「良い」老いを手に入れた人です。在宅の余裕のある人は在宅医療を選ぶことも病院医療を選ぶこともでき、余裕のない人は手薄い医療に追いやられるしかありません。「良い」老いを手に入れてしまったことへの含羞のない言葉は、膨らみがない。
「世の中ちゅうのはみんながあんたみたいに強いわけちゃうんや。あんたみたいに勝ってばっかしおるんちゃうんや。みんなもっと弱いねん。もっと負けてんや。うまいこといかんと悲しいて、自分が惨めなんもわかってる。そやけど・・・生きていかなあかんさかい、どないかこないかやっとんねん。あんたにそんな気持ち、わかるか。今の勘助にあんたの図太さは毒や」(カーネーション55回 安岡のおばちゃんの言葉)
3) 「異端を自覚している人に、私、言いたいんですけど、新しい状況に対応できる異端の者として自分が自覚したら、もう異端のまんまに行ってほしいですね。途中で下手に正規な正統なものに寄ったりすると飲み込まれるから、異端は最後まで異端でやって新しい世界をやっぱりやってほしいなと。」(NHK-BS「英雄たちの選択 楠木正成」磯田道史の言葉)
正統のポジションに取り込まれる=権威的な立場になることには、どこか当人をホッとさせるものがあるのでしょう。異端から正統になった人のほうがいっそう権力的になりがちですし、それでも異端の性格が残っているのでその権力の使用に失敗してしまいがちです。権力の維持にも異端にとどまることにもエネルギーが要るのですから、それならば異端にとどまることにエネルギーを使うほうが面白そうだと私は思っています。
4) 「家に帰りたいという帰宅願望が強い」患者さんはきっとたくさんいますし、「親や自分が死を迎える時には、自宅で笑顔で死ねることを願」う人はいっぱいいます。「病気によっては在宅の方がいい場合もある」でしょうし「自宅に帰った方が余命が延びることも数多い(NEWS ポストセブン 5.15の言葉を引用)のかもしれません(でもこれは対照試験ができないことなので、実はエビデンスがありません)
5) 「家族をきちんと看取る」・・・・うわあっ。断言します。これを平気で言えるのは1)自分が介護の矢面に立ったことがない、2)お金持ち、3)家族が多く人的リソースが豊富、に該当する人です。もうひとつ、4)よほどの偽善者、ってのも。(あるツイッターから)
癌にしても認知症にしても、介護する家族のたいへんさについて、医療者は「言葉を控えめ」にして在宅医療を称揚しているようです。ミッシング・ワーカー(6月2日NHKスペシャル)のような人は、医療者の視界に入ってもいないのかもしれません。